如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

いまから、親鸞さんの話をしよう。2019

今日は予定を変更し、思い立って「いまから、親鸞さんの話をしよう。」という大谷派の法話会に行ってみた。

 

私は今年に入ってから聞法を始めて、いろいろな仏教書や、SNS、リアルで知り合った僧侶の方のお話を聞いたりして、自分の中でこれが法話だろうなという定義がある。

①本願の話がある。生起本末がある。(必須)

②煩悩具足の凡夫の身であることの気づき。(必須ではないけど私はこれが必要)

これを聴聞していきたいと思って法話に行っているわけである。あとのストーリーがどのように成立しているかは講師の味である。

 

なので、今日もそのような気持ちで行ったのだが、思っていたものと違っていた。

改めて私の立場を申し上げると、私は帰敬式も受けてないし、特定の寺の門徒でもない。自分の祖父母の家が大谷派だったので、薄緑の香炉に懐かしさを感じ、縁あって聞法している一般人である。おしかけファンみたいなものである。中の人ではない。

そういう外から寄ってきた身として、今日参加した会について、『現在の現役世代社会人(ビジネスマン)が上記法話のポイントを踏まえて聞法する』という立場から客観的に感想を述べたいと思う。

 

【O師】

大谷派から出たことがなく、世間知らずであるとご自分でおっしゃっていたが、カウンセラーの勉強をされて、シニア世代向けに傾聴のスキルを獲得されているというのは素晴らしいと思う。

しかし、法話内に、仏願の生起本末がない。仏語の解説はあるが、それだけでは阿弥陀如来の本願を話したことにはならない。親鸞さんの話もないな。

門徒さんとの素晴らしい関係性は称賛に値するが、これは法話として成立していない。仏教に関係する面白いお話である。

 

【S師】

PCとプロジェクターを使用されていたが、現役ビジネスマンのプレゼンスキルから申し上げると、もっとフォントを大きくし、かつ画面切り替えは、クリックではなく、パワポをレーザーポインタで行った方がスムーズだ。せっかく、熱く演台の前に出ていらっしゃっているので、クリックのために演台の後ろに下がるのは時間のロスである。

あと、正岡子規の引用をされていて『正確ではありません』とおっしゃっていたので気になったが、引用は正確にお願いしたい。間違って伝えることは非常によろしくない。

内容に関しては、ご年輩の皆さんによくあるお話を分かりやすく伝えられていたが、20分という時間の縛りのせいか、最期、本願の話をするところにたどり着かなかったというか消化不良。こちらは90分ほどのお話であれば、きちんと成立するだろうなという感じはした。

S師のお人柄が伝わる、人情味のあるお話しぶりだった。

 

【T師】

『昨日送別会で3時まで飲んでまして、喉の調子がよくなかったんですが、準備で汗かいたら大分よくなりました』

『くじ引きでお話しすることになり、どうしようかと思っていたら、今日、ネタの入ったiPadが壊れてという状況です』

ドン引きである。もし、ビジネスマンで、取引先がプレゼンにやってきて、冒頭にこのような話をしたらどうであろうか。即出入り禁止である。わからない。宗教というか、仏教の世界というのはこういうものなのだろうか。浄土真宗は、僧侶も一般人も凡夫として区別ないとは言うが、ここまで凡夫っぷりを最初にぶちかまされても困る。

恐らくご本人は法話に慣れていらっしゃるのだろう、卒のないお話で、最期の30秒ほどでいのちを生きる話を入れてこられた。でもそれが仏願の生起本末かというと、私が聴いている感じではそれだ!というものではなかった。

個人的には、冒頭がショックで、その時点でお話がどうこうではなくなってしまった。

 

【ジェシー釋尼萌海師】

ご自身が、「私は知識も経験もないので、自分の話をします」と最初におっしゃったので、私の中では法話にカウントされない。

スイス生まれの僧侶。ご自身の母上が、家族の反対を押し切って安楽死され、そのことで思い悩み、浄土真宗に出会われたとのこと。いのちはだれのものですか?という問いを突詰められる姿が心に響いた。「今、いのちがあなたを生きている」という東本願寺のキャッチコピーにうなずけるようになるお話。

「安楽死」「尊厳死」と漢字で丁寧に板書される。それが自然になって、みなさんに本当の法話としてお話いただく日も近いのではないかと思う。

法話じゃないけど、今日はこのお話を聞けて良かった。

 

以上、私は個人を批判したいわけでも大谷派を批判したいわけでもなんでもなく、少なくとも公式の僧侶の皆様がやっている法話会は、一般人が見たときに、違和感があるという事を言いたい。僧侶という特殊な集団の中にいると、それでいい、法話はこれくらいでいいということがあるのかもしれないが、外を見てほしい。

先日、Twitterで大谷派の金沢教区東別院が改修されたが、親鸞聖人の750回忌法要に、宗派のトップである門主が出仕するかどうかが決まってないという記事を見た。要は本部に上納金を払えてないわけだ。金沢はまだましかもだが、北陸は過疎化が進み、さらに肌感覚では、家の継承もかつてほど強固ではない。門徒が維持できていないと思う。門徒を維持するにしても、若い世代に、お寺との付き合いを続けるよう働きかけているのか?という疑問もある。少なくとも私の世代以降に、親と同じでなければいけないという考えはもうない。

私の父は、50代の時に、母方祖父の葬儀の法話がよかったので、自分は実家から寺を移りたいと母方のお寺に相談していた。私の周りでも、自分の両親の葬式の話が出るようになった。転勤族であれば、寺なんか関係ないという人も多くいる。

お寺に関わるなんて、一般人であれば、人生でほんの数回。そんな人が多くなっている。そんな中、たまたま一般に公開してる法話会で、僧侶とはこういうものなのか、法話ってこういうものなの?と印象付けてしまうのは非常に残念だと思う。父や私のように、ふとお寺に振り向く人間もいる。そういう人間をきちんと受け止めてほしい。物を言わないまなざしで見られているという事に、気が付いてほしいと思う。