如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

ひやひやするけど、一度お話を聞いてみたい方。

 鶴田 義光さんの本を連続で3冊読んだ。

 仏教書読み始めの頃で、すごく刺激的な内容だった。

 

 歎異抄講述・聞書は、実は先に(二)を読んだ。
 この方は恐らく、原本のどこに何が書いてあるかという事には非常に詳しい方だと思われる。なので、文中に典拠が明記してあると、非常にそれが正しくもっともなことであるという風に感じてしまう。しかしながら、この問答形式においては、いささか質問者の意図に追加して、御自分の持論を乗せて回答されること、もしくは、質問に対して、その背景には触れずに回答されることがあり、質問者と読者が置いてけぼりになっている感が否めない。

 そもそもなぜ法話は聞法なのか。それは質問者から質問が出るという時点でそれは自力の質問(自力で何とかしたいという作用)なので、著者でなくても「あなたは自力で考えているからだめだ」的なダメ出し、誰でも可能だなと…。なので、質問しろ→自力はダメだという居心地の悪い循環は、どうやっても起こるものなので、もうやめたらいいのにと心から思う。質問形式は無理。だから聞法なのかなと。

 しかしながら、こういう個性あふれる方というのは、得てしてコアなファンもつくと思われるので、そのギリギリな雰囲気を楽しむという世界があるというのも否定しない。

 (二)もしっかり読んでみたが、ひやひやの読後感。
 歎異抄の解説においては、往生、成仏に関して、立場別に意義を明確にしておかなければならないと思った(自分メモ)。

 「何をやってもよい」といっている(P139)…というあたりからの下りは、著者も批判覚悟とのことだが、やはりひやひやするところである。この発言は座談会であるから参加者のこともわかって、誤解が少ないと思ってのことかもしれないが、活字化すると、ここだけ切り取って独り歩きすることがあるので、表現には非常に気を使った方がいいと感じた。

 正直なことを言うと、著者のいう上記のことは本当だと思っている。ただし、正しくその境地(ここでは回向?)に至れば、そうはしないのが人間であると思う。疑似的な回向体験をした人をコントロールする人が現れる可能性がある。また、疑似的回向体験は人間を追い詰めることによっておこることもあり得ると考える。そこのところをきちんと説明できなければ、非常に危険な表記である。

 著者は自らの信心獲得を披露しているが、そのことによって、自分の思うままにするのでよしというところを徹底実践されていることにより、その前の人にかける言葉が突き放しすぎというか…。

 『すでにこの道あり』は、ちょっと前の書籍のデジタル化。

 ここまで、ひやひや感でいっぱいな鶴田さんの著作だったわけだが、サルトル、カミュ、エーリッヒ・フロム…高校時代から読んでいた本が一緒って…。
 
 著者の人生の出来事に関しては、正直、恵まれた方だなと思う。挫折があっても必ずリカバリーできている。まあ、それだから本という形にもなっているのだが。

 なんとなくだが、別の著作にあった最近の座談会のご様子より、お若いときに書かれたこちらの本の方が”危険度”は低い気がした。まだ周りへの気配りというかそういうものが見えているので安心して読めた。感想の基準が安心して読めるかとかひやひやするかとかそういう感じなのが何とも。
 
 最終的に思ったのは、むちゃくちゃ自分に正直な人だな。だった。

 いろいろ他の仏教書を読んだり、お聴聞をするうちに、一度、鶴田さんの勉強会に行ってみたいなあという勇気を持つぐらいにはなってきた。

 

 

 

歎異抄講述・聞書(一): 序 (響流選書)

歎異抄講述・聞書(一): 序 (響流選書)

 

 

 

歎異抄講述・聞書(二) (響流選書)

歎異抄講述・聞書(二) (響流選書)

 

 

 

すでにこの道あり: 生きることの意味を求めて (響流選書)

すでにこの道あり: 生きることの意味を求めて (響流選書)