如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

時代によって法話の中身も変わるのだ

 著者は真宗大谷派の僧侶養成機関、専修学院の学院長。こちらもランダムに読んでいたら、気が付いたら3冊読み終わっていた。

南無阿弥陀仏の主になる いのちにめざめる 竹中智秀法話集 (響流選書)

南無阿弥陀仏の主になる いのちにめざめる 竹中智秀法話集 (響流選書)

 

 一番最初に出された法話集Ⅰだが、最期に読んだ。
 最初に読んだ頃より、私のとらえ方が変わったのか、法話の例示がそれほど時代錯誤ではなかったのか、とてもよかった。なにがよかったかというと、私が大事だなと思う名号、そして念仏の話がずっとされていて、様々な角度からお話しされているところだ。
 世間の厳しい環境で生きる人々に届くといい言葉がたくさんある。阿弥陀如来の本願に出会って生きるということがどういうことかという事を、言葉や例示を変えて、読者に感じさせてくれる。感じさせるのであり、訴えかけるのとは違う。

 


 一点、表現としてどうなのかなあと思ったのは、

阿弥陀如来の御心にかなって真実を生きていけるものに成っていこうと、そういう決意を確認しながら、立ち上がっていけば始まっていきます

というところ。これは自力になってしまうのではないかなと。。。

 阿弥陀如来の本願を含んだ法話としては、非常に分かりやすく、読みやすいと感じた。

如来の悲しみに遇う いのちにめざめる 竹中智秀法話集 (響流選書)

如来の悲しみに遇う いのちにめざめる 竹中智秀法話集 (響流選書)

 

  全く前知識なく、Kindle Unlimitedの仏教書のランキングで上位だったので読んでみた。

 

 

悪をもおそるべからず: いのちにめざめる 竹中智秀法話集 (響流選書)

悪をもおそるべからず: いのちにめざめる 竹中智秀法話集 (響流選書)

 

  この本で瞠目したのは、「なぜ聞法なのか」というのが明示されていたところだ。「無上仏になる教え」の段で、浄土真宗の教えというのは聞法=このことひとつを聞く=南無阿弥陀仏のいわれを聞くこれ以外ない。生起本末を聞く。そして個人ではなく、衆生として聴く。これは法話の話し手の方にも非常に重要なことではないだろうか。
 「自然法爾の教え」の段での専修賢善、悪逆非道を否定する「自然法爾章」の解説も興味深い。
 残念なのは、元になっている法話が古いため、現代のコモンセンスに照らし合わせたときに、表現として適切ではないことも含まれているところ。現在、毒親、親からの虐待、核家族化などがあるなかで、三界六道で帰るところは親だと言い切ってしまうのはちょっと。それだけで聞けなくなってしまう人がいる現代。まあ、この世はすべて地獄だからいいんだけど。そこを理解したうえで読まれると、素晴らしい内容だと思う。

 法話書き起こしの仏教書に関しては、やはり、その時代背景の共通理解と『場』の雰囲気がないと、深い理解は難しいかなと思う。表現に関するコモンセンスに関しては、どんどんそのクライテリアが変遷していくので、おそらく法話の表現も、『今』だったら変わるのだろうなと想像する。