如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

法話は場が作りあげるのだなと感じる

  大峯師の本の紹介の続き。

かならず煩悩のこほりとけ 大峯顯法話集 (響流選書)

かならず煩悩のこほりとけ 大峯顯法話集 (響流選書)

 

 大峯顕法話全集2の方と法話の内容は大分かぶっているが、こちらの表現に関して言うと、すでに浄土真宗の教えについてわかっている方、門徒の方向けかなあという気がする。2よりも率直な物言いになっている。より言い切りの形が多くなっているため、初めて仏教に触れる方はちょっと面食らうレベルかなと思う。それでも著者の魅力ある表現力はいかんなく発揮されている。
ちょっと法話を聞いている自分のレベルだと、理解しやすいとかわかったとかそういう次元じゃなくて、こういう表現で阿弥陀様の救いを云われるのはすごいと感じる。

 

 

科学技術時代と浄土の教え(上) (響流選書)

科学技術時代と浄土の教え(上) (響流選書)

 

 著者の広範な知識から、宗教・宗教心に関する見解が歴史、科学、哲学を交えて展開される。この部分はとても参考になる。
ただし、最期の方の著者の立場が宗教者であるというところが非常に重要な観点になっており、前半からの客観性を継続することがちょっと難しくなってくる。そこは下巻へ持ち越すとして、様々な観点から宗教・宗教心に関しての著者の意見は興味深い。
ここから自分が疑問に思ったところを深く調べるのもいいと思った。著者の別の著作も読んでいろいろ確認したいと思った。

 

科学技術時代と浄土の教え(下) (響流選書)

科学技術時代と浄土の教え(下) (響流選書)

 

 下巻から一気に受け取りが難しくなってきた。
まずは、言葉の扱いから。『本当の私は死なない』という私とは、何を指しているのか。『身体は自己ではない』の自己とは。まずは話を出してから、こういう意味だというのを後で解説はあるのだが、もともと、『私』や『自己』というのは、各人が勝手にイメージを持っている言葉故に、同じ理解で進んでいるのかどうかが怪しくなってくる。
『私は何のために生きているのか』という問いが本当の宗教であるというのは、その問いからの不安、苦しみが発生し、人間が科学で完璧に答えを出せないものに救いを求める点でそうだと思う。そして、それは幸福を求めるものではないということ。これは浄土真宗の他力本願の部分であると思う。
 この本でまず思ったのは、この本で断定的に書かれている内容は著者の持論の部分が大きいのか、真宗、または本願寺派の公式見解というか、共通の認識なのかという事。ちょっとそれは言いすぎかなと思うところがちらほらあった。これがまたお話をされる方の味わいでもあるのだが。断定だとちょっと考えてしまう内容もある。

 以上、前回の大絶賛からの大峯師の著作の紹介であるが、いろいろ法話ベースの本を読んでいて、聴衆が初めての人も含むのか、ずっと聴聞している同じメンバーなのかというシチュエーションによって、表現の大胆さというか、発露が全然違っているのだなというところ。同じ題材であっても、呼ばれてやっているところと、お聴聞を長くやっている人たちに対して話されるところで、大分違いがあるように感じる。そして、その場でなければ感じられない味わい、感覚もあると思う。話し手の側も、場の反応で表現を変えることもあるかと思う。それも大事。

 なのでやっぱり、本だけでなくて、その場に行ってお聴きするということが必要だなと改めて思う。