如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

南無阿弥陀仏の救いを疑いなく聞く・正像末和讃(宮田秀成師)

 著作を読ませいただいた宮田師の話が聴ける!土曜日万歳!ということで、行ってきた。宮田師は、フリーで布教されているとのこと。著作についてはこちら。

 

 

luhana-enigma.hatenablog.com

  自分も今、心が臆病になっているので、願ってもないチャンスだった。本当にサラリーマンにとって、土日だけでお聴聞するのはなかなか大変。素晴らしいタイミングだ。

 

 

 今回は、正像末和讃。

(26)
五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし

(27)
念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし

 宮田師は法衣ではなく、ネクタイのビジネス的なスタイル。そして、勤行もない。合掌念仏のみ。ホワイトボードに書き込まれる姿は、どことなく、高校の先生を彷彿させる。今日は座学か…という風に受け取った開始直後の自分の愚かさを呪いたい。

 徹頭徹尾の「仏願の生起本末」であった。先週の瓜生師に続いての。

 以下、備忘録。

 二首を比較しながら、解説。弥勒菩薩の解説から阿弥陀如来の法藏菩薩、仏覚の解説から、救われる対象となる私、弥勒菩薩と等正覚とまことの信心うるひとを並べて見る、本願の十八願、まことの信心=真実信心=他力の信心。

 奥行きのある解説なので、本文以外のお話が芋ずる式に入ってくる感じ。

 それにしても、先週の瓜生師に続いて、宮田師も弥勒菩薩半跏思惟像の実演をされたのは、どんなご仏縁なのか。講師二人共って…。

 ここまで、「みなさんついてきていますか?」と振り返りながら先生のようにゆっくり話されている。そして、どんな人でも理解のできる例示と説明。宮田師は、ご自分の話は一切入れないスタイルの様だ。それもすごく聞きやすい。それでもわかる例示。

 後半部分、優しい先生から出るここテストに出るからちゃんとやるんですよオーラのように、佳境に入った雰囲気に。 

 「まことの信心うるひと」とは、念仏往生の願を信じる人であり、本願を「聞く」ことができる人である。浄土真宗の救いは、念仏が交換条件ではない。誰でも救いに遇うことができる。南無阿弥陀仏を聞いて疑わない。

 これは、重要だ。南無阿弥陀仏の救いを疑いなく聞く(意識しないで)。聞法の目的というのは、こういうことだ。だから仏願の生起本末を聞くのだ。

 自分はいつもこういう事を毎日の仕事や生活ですぐ忘れてしまう。でも聞法することにより、埋没した日常から忘れてはいけないことを思い出させてもらっている感じがある。自分が生きているとはどういうことか。ほんと凡夫なので、死ぬまで聞かないとだめなんだろうと思う。それは回数でも修行でもないけれど、聞いていかないと忘れるから聞くということなのだ。

 宮田師の静かだけれども熱いお話、聞法に臆病になっていた自分にとても効いた。