如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

釈迦から大乗仏教後期まで、そして今日までの流れを感じる

 大変お薦めということで読んでみた。

 

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

バウッダ[佛教] (講談社学術文庫)

 

  著者は仏教界では有名な中村氏と三枝氏。間違いのない一冊というのは読む前からわかる。そしてそれは読むごとに確かめることができた。

 仏法僧から釈迦の教えについて、経典をたどっていく形。阿含経典の章では、サンスクリット語、パーリ語、その他プラークリットとの関係など、ぼんやりとしか知らなかったことが、自分の脳にはオーバーヒート気味の量の情報を得ることができた。ニルヴァーナの解説においては、往相還相がわかりやすく書いてあって、ああ、いま現代で自分が理解しているのと違わないではないか!という感動があった。

 この本で一番感じるのは、多くの地域の多くの人たちが、人種や国、民族を超えて、釈迦の教えを守り伝えようとしたその努力。研究所的な筆致なのだが、なぜかそういう人々の息遣いが聞こえてくるような感じがする。そしてその最下流に現代の我々がいるという現実。そういう大きな伝道のなかで、時代や地域や人に合った形に変わっていくという事は、どれほど問題なのだろうかと思う。大乗非釈迦仏説でいいではないか。

 部派仏教から大乗仏教になるときに、大きな力を発揮したのは在家信者であったとのこと。どうしても生々しい現実世界寄りに生きる在家信者がこれならばと求めていった菩薩。そしてあまたの”仏”たち。「生き方」ということ真摯に向かい合ってきた人類の歴史でもあるのだ。

 後半の「宗教」と「哲学」の意義では、自分がちょっと違和感を感じていた仏教を宗教とカテゴライズすることに関して、すっきりする回答を見た。

 原始仏教から、ほぼ現代までの流れを知りたいという人には必読の一冊である。

 

 大乗仏教への三枝氏の言葉。

とりわけ、日本の社会に関して言えば、そこには、古代から現代まで、安易で軽薄な世俗主義が強い底流をなしている。しかしながら、そのような中にあっても、元来は「バウッダ(佛教)」に、そして直接的には大乗仏教に基盤を置いた大乗文化は、この種の俗悪な世俗主義をどこまでも排除すべきだろう。そこでは、一時的な保身や利得や売名や権勢に目がくらんで、時々刻々に浮動するままの世俗に媚びつつそれに迎合し、さらにはいわゆる世の流行に浮き身をやつし、ときにそれに便乗したり、促進したり、悪用したりする一種の道化役へと、無自覚・無節操・無節操に頽落することの絶無であるよう、みずからを深く戒め、また仏教に関連するすべての人びとに念願してやまない。

  この時代への予言的メッセージだろうか。