如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

子供と宗教・信仰について話したこと

 あまりプライベートの話はしたくはないが、自分には、まあいろいろ分別のつき始める義務教育年齢の子供がいる。たまに自分がお寺や美術館などに行くときに誘うとついてきてくれる時がある。今回夏休みだし、法話に誘ったら、

「この前みたいなひどい話じゃなければ行く」

と言われてしまった。ああ、やっぱり印象悪すぎたんだな…と今更ながらに思う。

 

 

 GWに、某寺の午前の法話に息子を誘って連れて行った。法話に連れて行くのは初めてだった。その場にはかなりの人数の人がいて、法衣姿の方も多かったので、何かのイベントがあったのだろうか。二人で端っこの方に座った。

 お話は、還相回向の内容だった。講師ご自身の亡くなったお母様との思い出というような内容だった。お母様は、たまに帰省した時に自分の好きなものをお土産としてたくさん持たせてくれた。その中に、漬物が入っていて、新幹線の中で汁が漏れて、すごい臭いで周りに迷惑をかけた。赴任先に到着して、お母様に「どうしてあんなものをいれたんだ!」と”激怒”して電話をしたというあらすじ。

 この印象に残ってるところのあらすじをご覧になって、みなさんはどうだろうか。法話が終わって、外に出て歩き出した時、息子が言った。

「今日のお話で、漬物の汁がこぼれて周りに迷惑かけたからって、お母さん怒るのって、普通じゃないと思う。大人になってからの話やろ?僕はああいう気持ちになることが全然意味わからない。そんなことあったとしても、お母さんにありがとうっていうところじゃないの?お坊さんってそんなんなん?あの人だけ?とりあえず、それでびっくりして話が入ってこなかった」

と言われる。その通りだ。私と全く一緒の感想である。実はこの話聴いている段階で、しまったと思った。息子はどう思うだろうと思っていたが、予想以上に受けつけていなかった。

 このブログでも、法話についていろいろ書いているが、基本的に私は講師の方がご自身の話をされ”すぎて”、自分にとって聞きにくいところがあったとしても、中に阿弥陀如来の救いを聞くことができればそれでいいと思っている。そこを聞きに行っているので。しかし、息子のような初めて法話を聞く人が、まったく共感できないものであったとしたら、どうであろうか。その日、ホールで同じ法話をきいていらっしゃった多くの人はどうだったのであろうか。

 私は、その時の講師の方が、本当に人格的にどうのこうのとは思わない。だが、法話の例示をされるときに、一般の人がこのように理解するであろうというクライテリアがあまりにも違いすぎているのではなかろうかと危惧している。それはこの方だけではなく、法話を聞いていてわりと感じるところである。共感を呼ぶと思って、”今どきの若い人は”という話をする。お金の話をする。お酒に関わる話をする。政治(イデオロギー)の話をする。今テレビや雑誌で話題のことに関して、意見を言う。SNSで個人的に発信される分には全く問題ないと思う。でも、法話をする場でそれを披露されるのは、いい面もあるかもしれないが、まったく初めての人が聞くと誤解を与えることが多い。法話なのに、阿弥陀如来の救いではなく、その人の話を聞いて判断してしまうからだ。万人に100%受け入れられるものなんてないと思う。でも、自分の話を入れないで、経典の通りの阿弥陀如来の救いを説いてもらえれば、誰にでも届くのではないだろうかと最近思う。

 今回は、家族に対する想いのところで引っかかったため、息子の拒絶反応が予想外に激しく、自分も困っている…。

「こういう話聞いてどうするの?」

 

 ということで、法話に一緒に行くのはあきらめて、龍谷ミュージアムに一緒に行った。朝早めに行ったからか、館内は人が少なく、一応わかる範囲で説明しながらゆっくり周った。杉田玄白の『解体新書』があって、

「杉田玄白と解体新書っていう言葉はテストのために覚えてるけど、それがなにかっていうことは僕は全然わかってないってことやな」

と写本を見て息子が言った。それに気が付いただけでもよかった。

 京都駅に帰る道すがら、息子に聞いてみた。

「神様のお祈りってしようと思ったこと最近ある?」

 子供たちは、親の都合で家の近所のプロテスタント系の幼稚園に通っていた。自分は行事(とりわけクリスマス)を通じて計6年、園長先生である牧師様のお話を聞いたのだが、全くしっくりこなかった。息子に至っては、クリスマスのページェント(宗教劇)で、ヨセフ役までやったのであった。

 朝、お昼、帰りのお祈りをやっていた3年間。それって息子にとってどうだったのか。

「はっきりいって、卒園してから神様のこと考えたことないなー。幼稚園の時は先生がお祈りしましょう言ってたからしてただけだし。でも、キリスト教の神様を大事にしている人がいるし、日本のほとんどが仏教徒なのもわかるし。」

親が仏教を大事にしているのがわかるから、今日は付き合っていると言われる。驚いた。小さい時にそういうものに触れてきたからそういう風に考えてくれているのだなと感じた。 

 まあいい機会だと思って、生きることと死ぬことについて聞いてみた。

「うーん。家族が死んだらいやだとしか思いつかないな。自分はまだ死なないと思っている。」

息子はまだ親族の葬儀に参加したことがない。たまたま誰もなくなっていないのだ。ここについてはこれからかな。あと、若いからな。しょうがない。

 これから子供たちが成長し、どこかの段階で、生きにくさにぶち当たり、宗教を求めることがあるかもしれない。幼稚園ではキリスト教に触れ、自分からは、仏教について触れる機会を与えているつもりだ。自分からは強制しない。それぞれが選ぶことだから。ただ、子供たちが自分の選択を尊重してくれていることに対してはとてもうれしいし、恵まれていると感謝している。