前回、読後がよかった近田師の二冊目。あああ、こっちはさらによかった・・・。
自分で善し悪しを考えているうちは救われませんよってこと。その善し悪しが全部ガッタガタになることが大事なんですよ。
「本当に何が何だかわからなくなりました」というのが大事なんですよ。そこが「弥陀をたのむ」ってこと。何が善しなのか、何が悪しなのか、すべての善悪を絶ちかねるのが私というものでありました。
ここを読んだときに、自分が自分でいろいろ仏教関連書を読んで、自分が煩悩具足の凡夫であるということを聞法で確認している感じがしていたのは、こういうことにつながっていくのかなと思った。
いつも聞かせていただいていたけれど、あ、この事だなって聴いたことが聞こえてくるんです。
これも実感としてある。あと、是非読んでいただきたいから引用はしないが、聞法の意義について核心を突いた表現で書かれているところがある。
いろいろな本に書かれている、南無阿弥陀仏と自分と自分の生活というものの関わりについて、かなり明確な表現がされており、まさに「ナンマンダブツの中の人生になる」ということを自分で考えるようになる。
そして、前回の読んだ本にもあったが、なぜ自分が人間として、私として生まれたのかわからないという根源的な問いを持つ人の存在、救いを求める人の存在をきちんと取り上げてくれているところが、仏法を「求めたい」と思う人に門戸を広げている。なんだかわからないが興味を持ちましたという人でなく、求める人に確実に向いている。
あまりこれまで読んだ本で出てこなかった「仏恩報謝の称名」については、「仰る通りの私だったということに今ようやく気付かして頂きました」というご返事という表現がとてもしっくりきた。
聞法することに関して考えたい人には大変おすすめの一冊。
前回読んだものはこちら。