如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

仏法に出遇うとどうなるか知りたい人に

今日はいつもとちょっと違う事を書くかもしれない。

 

迷っても悲しんでも、南無阿弥陀仏 悲しみを抱く、あなたへのお手紙 (響流ブックレット)
 

 入浴中に一冊読み切った。

 

この本は今まで読んだタイプと異なる。「僧侶の書いた仏教書」感がない。どちらかというと、「今僧侶である人間が、どのようにして仏法にであって、そして今もわからずに迷っているか」というのを追体験するものである。僧侶の立場でなく、視点が聞法の立場からぶれないのだ。ところどころ教義的な解説も差し挟まれているが、この視点は揺るぎない感じがする。僧侶の立場での表現であっても、迷いの中にいるという点では我々と同じなのだと感じるものがある。

仏法に救いを求めるいろいろなタイプの人が登場する。病で学校生活に支障が出た人。新興宗教にはまる人。念仏をする老女。最愛の妻を弔う夫。死を見つめる癌患者。「浄土真宗のようなもの」に乗っ取られる人。愛娘を亡くした母。そのうちのいくつかは著者自身である。この中に、読者は自分の姿を見つけ出すかもしれない。

「誰か、お願い!私にだいじょうぶだよって言って!」 

 あとがきに出てきた少女の叫び。孤独の中の叫び。救いを求める心からの叫び。それに応じて大丈夫と声をかけるのは、同じ衆生である仲間かもしれない。でも今そこに助かってゆける世界が透けて見える気がした。

 

読み終わって、涙が出た。

今日はいろいろあった日だった。想う人の体調を心配した。尊敬する先輩のご家族に降りかかった困難な病。会社の不条理。同志の諦めから来る優しさ。自分の無力さだけが感じられるばかりだ。

今日、たまたまの自分のコンディションにこの本の内容が刺さっただけかもしれない。でも自分の代わりにこの少女が叫んでくれている気がした。ああ、自分は大丈夫だ。そうだ。そういうことなのですね。

南無阿弥陀仏