如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

あなたは再び生まれ変わりたいですか(大窪康充師)

 今日はしんらん交流館定例法話でお聴聞。講師は金沢教区の大窪康充師。

  毎回法話の感想を書くわけではないのだが、今日は書き留めておきたいなと思った。

 法話の題は「あなたは再び生まれ変わりたいですか」。とても変わっているなと思った。あまりご法話で出てこないような話だ。以下、自分のメモ。

・再び生まれ変わりたい=来世を期待する=今を生きていない。

・南無阿弥陀仏に出遇ったあと一回の今生。あと一回を生ききるということ。生きて死にきるということ。

・浄土真宗は死んだ後の話をしないという人がいるが、そうではない。死んでご縁のあった人にバトン(いろいろなものがつまったもの)を渡す役割をするものになるのです。(ここは多様な捉え方、解釈あり)

・弥勒信仰は「待っている」。浄土真宗は待たない。現生正定聚となる。一生補処

・阿弥陀仏との関係。名を唱えることで呼応する関係。十七願と十八願。

・不如意(思い通りにならないこと)から如来を感じる。

・基本は土。蓮華は泥の中に咲く。お互いの泥を養分にしている。泥の上に立つ、下品下生。落ち着くところに落ち着く=足が土につく。そしてすべてに頭が下がるところ。

・懺悔と讃歎は表裏一体。

(自分の解釈:己を血の涙をもって苦の中に在ることを実感することで、初めて仏願を讃歎することができる。それも一瞬の自己の煩悩によるまやかしかもしれないが)

 

 途中、「最近は、ちゃんと声明で声を出しませんね。これは残念なことです。声を出すことによって、周りの人がいる。一緒に正信偈を読む人がいる。そういうつながりを感じることができる。これが大事なのです。」という話があった。たまたま一昨日の瑞泉寺での声明に感動したのと、別のところで声明についてコメントしていたのではっとした。実は自分、声明大好きなのである。祖父母の親友の住職の声明が大好きで、月参りなどで機会があれば一緒に聞いていた。これはわかる。十方世界に響いている南無阿弥陀仏を感じられるのは声明だ。今はちゃんとお勤めできるように練習中。

 大窪師が若い頃、声明が下手くそでも法話が下手くそでも、門徒のおじいさんおばあさんたちが、「南無阿弥陀仏」と応えてくれたから助けられて今に至ります。声に出したら、つながりがあってそこに助けられるのです。声を出さないと始まらないのですというお話をされて、今日の自分はここをお聞きしただけでもよかったなと思った。

 還相という言葉は使われなかったが、全体として生死の問題と還相回向のお話とお受け取りした。一時間のお話だったが、とてもフランクで聴衆に語りかけるように中身の濃いお話をいただいた。

 きっと法話は他の方がお聞きになると別の受け取りになるのだと思うが、自分が今感じた備忘録として残しておく。