如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

自分の死に方を決めるということ

 今回は書評ではなく、思ったことを。

 

 

 先日、仕事関係でランチをご一緒した人から、伴侶の方がALS(筋萎縮性側索硬化症)であるというお話を聞いた。ホーキング博士がそうだというのは知っていたが、その方のお話を聞くのが初めてが本当のところ。

 

 病気の症状は別として、自分が気になったところを。間違ってたらすみません。

①筋肉が動かなくなり、眼の動きで意思の疎通をするのを最後に、全く動けなくなると、自分の意思を他者に伝えるすべが全くなくなる。

②筋肉が弱って呼吸が難しくなったときに呼吸器をつけるつけないの判断が本人と家族に委ねられる。呼吸器をつけると声は出なくなる。『話す』コミュニケーションが絶たれる。

③①の段階でも、頭ははっきりしていて判断能力は全く衰えない。

という病気らしい。

 

 まだ元気なうちに②を決めるのが大事らしいが、ご家族によっては、呼吸器をつけることを反対する場合があるとのこと。

 自分で呼吸器をつけるつけないを決めるということは、どのように死までを生きるか自分で決めるということ。そして、少しでも長く生きたいと思ったときに、自分だけの力ではどうしようもなく、周りの助けが100%必要になる。そのときに、どう選択するか。

 そして、助けてくれるはずの家族、支えになってくれるはずの人たちから、自分の意思に反する意見が出たとき。自分の死は、ちょっと遠くか近くかわからないが、すぐ目の前にある。そんな状態で、愛する人たちとの亀裂が生じる可能性がある選択を迫られる。重いなあ。悲しい選択・・・そういう例もあるらしい。

 呼吸器をつけようがつけまいが、①の最終段階になったときに、自分の気持ちを伝えられないということ。苦しい、さみしい、伝えたい!ができない。でも外の情報は入ってきて頭の中では考え続ける。判断することができてしまう。

 お話をしてくれた方は、事前にご夫婦で意思を確認しており、今も声は出ないけど、コミュニケーションはまだとれているとのこと。その方からは疲れや苦労のようなものは全然感じられず、たまたまそういうことになっただけとおっしゃっていた。医師や看護師、ヘルパーのみなさんに助けられて生きている事を素直に感謝の気持ちで受け取られている。

 数日後、たまたまAmazon プライムで『博士と彼女のセオリー』というホーキング博士の半自叙伝の映画を見ることができた。映画のあらすじで、病気は重要なようでいてそうでないような。あくまでも病気だとかどうとかという形而下のことよりも、人間としての芯のようなもの。言葉では表されない、その奥の形而上にあるそれぞれの人が持っているなにかが大事だし、それは時に不条理に働くものであるというのを知らされた映画だった。

 自らについて考えてみる。自分の死に方は決められる。いざそのときにどんな自分になったとしても、阿弥陀様の救いは届いているのだ。