今日はにしのみや聞法会に参加させていただく。7月に一度聞かせて頂いた宮田師。
正像末和讃から。
(29)
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にいりたまふ
(30)
弥陀の尊号となへつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
今回も古文の先生のように丁寧に一字一句の説明がありながらも、仏願の生起本末から信心について、よどみなく解説していただいた。本筋の主題から中身を大きく膨らませて説明されるのは、宮田師の技量はもちろん、和讃の中のひとつひとつの言葉が仏法に満ち満ちているという、親鸞聖人の類い希なる文才、宗教的な能力ともいうべきか。
念仏については、様々な本を読んで、「とにかく称えてみる」ということを多く聞くが、「とにかく自分で称えてみる、というのも自力のようでいて、結局は阿弥陀仏の本願力で、本願招喚の勅命が自分の口から出ているだけ」というのは真宗らしい発想を転換するところを丁寧に教えていただいた。
そして、最期15分。ここからテストでるぞタイム!!!なかなか法話で巡りあわない「信心」については、和讃中の「信楽」から解説いただいた。疑う心のなきなり。聞即信。この辺のお話は、本になるといいなあと思う。
宮田師とお話ししたときに、「ストレス解消に」聞法行ってるところがあるという風に一瞬言ったのだけれど、後で自分で違うなあと思った。普段は会社で自分のこうしたいと思うことがあってもまったくままならない状況で生活をしているわけである。忙しいと修羅道そのものなのである。そんな自分がやはり救われない衆生であるということを、聞きたいと思うわけだ。なぜか。煩悩具足の凡夫であるのを感じたいのか、会社でいろいろな役割をくっつけて生きている自分ではなく素の存在でいる時間がほしいのとどっちが先かわからないが、そういった時間を求めている。お聴聞していると、そういう瞬間がやってくる。必ずある。人によって違うとは思うが。そしてそれが大事だからお聴聞に行くのである。行きたいというのだろうか。行かなくちゃではない。行ってしまう。
ただ念仏して弥陀にたすけ参らすべし(歎異抄 第二章)
ということだな。
今日もたくさんの気づきをいただいた。
南無阿弥陀仏
★宮田師の前回の法話
★宮田師の著作のブックレビュー