如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

はじめまして仏教に行ってみた

 会社の近所。北御堂。

 かつて福間義朝師のお話聞こうと思って4時起きで晨朝に行ったら、7分ほどのお話でちょっと残念だった過去がある。北御堂。サラリーマン、平日の昼の常例はきついっす。

 はじめて法話を聞く人向けということらしく、今後会社の興味ある層の面々を連れて行けるかどうか一回行ってみることにした。

 20分の法話を3名の講師が行う。その後に参加者と僧侶で座談会。

 

 3名の講師の方のお話について言及しないが、「初めて聞法する人」が聞いて思うだろう事をちょっと書いてみたい。

【おそらく出るだろう疑問】

・なんで法話を聞くの?葬式で法話あるだけじゃないの?

→これは結構自分が聞かれる。なので、そこは何かあった方がいいと思う。

 それにプラスF師の法話にあったように、「他人がであった阿弥陀仏に、その人にであうことで、自分もその人がであった阿弥陀仏にであうということの大切さ」があると、非常にうなずける。

・どこで法話やるの?このイベントだけ?

→このイベントの次回お知らせだけじゃなくて、常例法話のお知らせがあってもいいのでは。他の参加者との座談会で、きっかけあって行くようになったという人もいたので。

 

【現在聞法している立場で思ったこと】

・阿弥陀如来の救いというのは、「阿弥陀仏の本願により現生正定聚となることにより、浄土に行く身が決まる。もう流転しない」ということだと思うのだが、この点は触れなくていいのかなと。

 今回の法話の内容だと、阿弥陀様のまなざしがあるありがたさが中心で、お浄土がないな・・・。と。全然仏教を知らない人は、わからないなりに要点をつかもうとする。そのときに阿弥陀様のまなざしがあるありがたさを肝として、それと現世での生きやすさを結びつけやすいな・・・と感じる。個人的には、現生正定聚の利益をいわずしての「阿弥陀仏のまなざしがあるありがたさ」が現世利益信仰に見えてしまわないかと危惧する。

・「自分が自分でいいと心から思える」という表題があったが、これはいかがものか。お話の内容は関係ない。あくまで表題のみでいうと、”自分”が”自分”でいいというのは煩悩だ。阿弥陀様は、煩悩具足の凡夫であるお前をそのまま救うとはおっしゃっているが、そのままのあなたで”いい”とはおっしゃっていない。現実的にこういう承認欲求を持った人はたくさんいる。そこを狙ったような表題は危険だ。

実際お話を聞くと、我尺で物を考えていたところから阿弥陀仏との出あいで変わったという事と理解した。だからお話は関係ない。あくまで表題の問題。

 

 座談会はよかった。聞法している別の方とお話しすることができ、法話中に、非常にいいと思ったときに、年配の方はなんまんだぶと称名される。これ、心の中で、「自分もです!!!!」と叫んでる状態なわけだが、マナー的になんまんだぶをいうのはありなのかな?ありだったら、次からやろう!と話した。

 自分はたまにブログやTwitterで書くからいろいろ反応してくれる方もいるのだが、知らない方と対面で、お聴聞の聞かせていただき方について意見を交換できたのが収穫だった。本当によかった。

 

 仏教は俗にいう感じで楽しくもないし、かっこいいものでもない。自分は、煩悩具足の凡夫でありなんともならない衆生の身であることを忘れそうになるから法話で思い出す。そしてその自分を必ず救うという阿弥陀仏の本願を聞く。わからないことがばかりである中で聞いていくということ。何かがわかりそうになる感覚があってもそれは当てにならない自分の思い。わからんけれども聞きますね。

 

南無阿弥陀仏