如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

信仰とは何かを考える 『仏教の大意』 鈴木大拙師

 手に取ったのは、Kindleだと200円台でめちゃくちゃ安かったから。

数年前にマインドフルネス関連で読んだ本に登場することのが多かった鈴木師の著作を初めて読んだ。この本は天皇皇后両陛下への御進講の記録を基にしているという。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

 

 

恥ずかしながら、鈴木大拙師に関しては、禅関連で海外で活躍されたという事ぐらいしか知らない。今もこの本しか読んでないので全然知らないでいうのだが、信仰・宗教に対する宗教人としての純粋な表現と、誰にでもわかりやすい学術的理論的表現が素晴らしい均衡で現前している。一気に2回読んだ。大峯師と池田氏の共著以来だ。

『霊性』という言葉で以て、言外の世界を表す。一見すると、オカルティックなものか何かかと思ったが、読み進めるうちに、雷に打たれたような文言に出遇う。

人間は分別があり、これはどうしても消えることがない。霊性的自覚は分別の無分別、無分別の分別という一見相反するものが一如(二つではない)となっているところで感じる。あくまで分別している自分が。というのが自分なりの解釈。無分別の分別を思弁の上で納得させようというのではなくて、日常経験の上で絶対無意識からの無分別が分別の中に入ってきている。これを霊性的に直感する。

ここまで書いて、自分はお聴聞のことを思った。聞いている私は、法話の内容を分別している。でも、たまにやってくる「つながり」の感じは、無分別の分別なのかもしれない。

大死一番して絶後に蘇息するという経験がないと、キリスト教も仏教もわからないのです。そうしてこれは信仰です。

大死一番…という言葉には、必死でやるとか言う意味合いでとることが多いようだが、自分は、自分の存在を根底から覆されるような体験、苦しみと読んだ。そこを抜けてきた者に信仰があると。仏教だけでなくキリスト教でも、信仰を求める人というのは、生の苦しみを抱えている人であると思っている。その求めた先がそれぞれ違うだけであって。

人間が裸になることによって、信仰に向き合えるというところで、人間は霊性的自覚により、宇宙より大であると。そして

赤裸裸になった人間、社会的地位も勢力も何もない人間、この人間がもち得る霊性的自覚の故に、「天上天下唯我独尊」と絶叫せられるのです。

自分が独りだと言える世界がある。でもそれは孤独ではない。無明の私は無量寿光に照らされているのだ。そして南無阿弥陀仏は独りの私に内在している。外にいるわけではない。

この「自覚」という言葉。真宗的には自力にとられかねないが、既視感ありと思ったら、大峯師が著書で、あえて「自覚」という言葉を使うと宣言されていた場面があったのを思いだした。ちょっと手元にないのだけれど。それは、積極的な自力の認知という意味ではなく,煩悩の塊である”私”というものが"感じてしまう事がある"を言ったのかと。

宗教経験は苦の経験であって、この経験の故に離苦が可能になるのです。

 己が赤裸裸になろうとしてなれない凡夫であると分別しながらも、無分別で赤裸裸な自分を霊性的自覚で見る。

自分はやはり、仏教は宗教として存在するときに、苦ということを避けて語れないと思う。抜苦与楽の苦を言及せずして仏教は成り立たない。苦の中にいる己から目を背けずにいたときに起こる霊性的自覚。すべてを超越するきらめきのようなものを感じる一瞬。これが信仰なのか。

このきらめき、自分は「つながり」と思っているが、これを分別する衆生の身では無駄なのだが、求めざるを得なくてお聴聞に行ってしまうのかもしれない。これが宗教か。

 

意外と絶望型の信仰(適切な表現が見つからない)を持っている自分としては、素晴らしい本に出遇ったと思う。

信仰に関して思うところがある人は、是非一度読んでみてほしい。宗教者とはということにも思いが至る。宗派を超えて感じるところがあるはずだ。

仏教は宗教である。ここは絶対外さないでほしいといろいろな新しい試みに対して切に願う。

 

南無阿弥陀仏