如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

宗教とは。そして南無阿弥陀仏(瓜生崇師)

奈良の光慶寺正信偈講座(3)に参加。

講師 瓜生崇師

http://m.shinshuhouwa.info/article/index.php?id=44617

今回はいろいろもやもやしていたところの核心に触れるお話しがいくつかあった。明快な答えが出るものではないが、自分が気になったポイントを備忘録として。

 

【宗教とは】

どうして生まれて、生きて死んでいくのかという問いを、その宗教が作った物語を信じることにより成立する。その物語は、今生きている自分に都合がいい物語。都合が悪いものは信じられない。しかし、その信じるという行為も、自分にとっての善悪やいい悪いの虚妄分別でしかない。

→どの宗教にも共通なこと。あまり法話の場で宗教として仏教を語られることがないので、改めて聞くと仏教は宗教であるということを現代の自分たちは認識し直さなければいけないと思う。

【信心は間に合わない】

阿弥陀さまからいただく信心を他力といっているが、それをいただいたどうかということを”判別する”のも物語を信じる虚妄分別。阿弥陀経では最後に「難信の法」として、本当のお浄土はあなたの分別ではわからないといっている。

人間は虚妄分別で考えたとき、仏のいうお浄土が想像できない。いいかどうか判断できないものは、本当は全力でいりませんと思っている。わからないから。「無明」である我々は、一切平等を拒否する。仏智に背を向ける存在である。

→聞いていると心が痛くなる。無明であることに素直になれない自分もどこかにいるから。

【聞法】

回数を誇るものではない。行ったからどうでもない。「私は信じる心はなかった」と気がつくと言うこと。どうしても虚妄分別にとらわれている自分。本当に求めている人ほど、信じられない自分に気がついていく。

→結構回数行ってブログにも書いたりしているが、回数こなしたいという思いはないはずと自問自答する。

【法藏菩薩の願いとは】

称名・南無阿弥陀仏を称えること。南無は「法藏菩薩に捕まえられた私」阿弥陀仏は「法藏菩薩の願い」。自分と法藏菩薩が一緒になって、南無阿弥陀仏となる。蓮如上人は、「南無阿弥陀仏の主になる」と。名乗りに応える「私」がいないと完成品しない。

→表裏一体のこと。これは鈴井大拙氏の言葉であると、東洋的な一如であり、二元化する西洋哲学では説明のつかないところなのだろう。

【真宗 信心数え歌】

四つとせ よくよくおじひをきいてみりゃ たすくるみだがてをさげて まかせてくれよのおおせとは ほんにいままでしらなんだ

瓜生師がずっとわからなくて心に残っているという歌。わからないということが心に杭のように刺さる。それぞれのひとがわかないところがあるのだなと思った。自分もわからないところが多すぎるけど、それでもここがというところがあるので、今度じっくり考えてみよう。

 

虚妄分別から出られない我々は仏智を拒否しているというところから,一切平等を受け入れない人間を想う。仏教は決して今の自分に温かく優しいものではない。自分は死ぬまで辛くていいと思えるところを聞きたくて聞法しているつもりだ。死ぬまで辛くてもいいならそれを前提とした生き方が開かれる。

 

南無阿弥陀仏

 ■前回の記事

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 ■無明について読んでもらいたい瓜生師の本

 

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 ■「南無阿弥陀仏の主になる」という表題の竹中智秀師の本

 

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 ■ある意味やさしくない仏教。私が仏教の本質はこれかと感じた本。

 

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