如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

ここ数日考えたこと

Twitterでここ数日話題になったことがあった。それについてタグを付けたりして直接言及したことはないが、思うところはつぶやいた。

 

 

この背景を描いてみようと思う。

直接書かないが、このつぶやきは、他宗の某御朱印の話と某カレンダーの話を見て出たもの。

自分は働く一般人が本分なので、淡々とこれについて思うところを書いてみたい。

《普通の人の視点》

【萌え絵の御朱印】

・お寺がもうけようとしてやっている。そんなものを書いていいのか。

・まったく宗教と関連性を感じない。

【某カレンダー】

・”スター”ってなに?お坊さんのなかにもいけてるひといけてないひとみたいな差別あるの?

・日めくりなら上馬キリスト教会の方ができがいい。おもしろい。

【某裏カレンダー】

・お酒のシーンはいらない。

・どうしてちょっとはっちゃけた写真なのか?

・そういうくだけた感じは求めていない。

このあたりは、以前、アンケートをとっているので、自分が思った以上に一般の人が僧侶に求める清廉さが高いという事をいいたい。人間だ、同じ衆生だという話もあるが、まず普通の人は、こういうある意味「偏見」を以て僧侶を見ている。これは友人と話していてもほんとうに感じるところ。インタビューをした内容には書かなかったが、ちょっと自分が言われてるんじゃないかと錯覚してへこむくらいのイメージ。金持ってて酒飲んでて生臭坊主なんだろ!と思いながら、自分の関係する葬儀・法事に来る僧侶には高潔さを求めるという、ちょっとそれほんと自分の都合だよなというものである。でもそれが世間だ。そんなやついないわ!!!!と途中自分が反論したくなるくらいだ。

なので、SNSで視界に飛び込んできた画像が、自分の持っているイメージと違うものだったら、即拒否反応なのである。面白いものだったらいいが、酒、女関係でインパクトを与えるのは逆効果だと思う。本文なんて読まない。伝わらない。去って行く。そういうことなんだ。

ファボして、好意的リツイートしてくれる人がいるけど、批判コメントってつかない。みんなエアリプ的に返すか、ツイの中に単語入れるかだ。そして好意的な人も反感持ってる人も表明しているのは仏教界の人。そして何も足跡をのこさない一般の人ってどう思っているか。ここが肝心なのではないかと思う。

■以前とったSNSの投稿に対するアンケート

ヒアリングしていた自分がへこんだ

 

luhana-enigma.hatenablog.com

 

何も言わないまなざしが、一般の人だと言うことも考えてほしい。

ああ、お坊さんの世界って、こんなんなんや。うちわでもめててとか思って終了する。

僧侶のみなさんが俗物だということを一般の人はもうすでにイメージ持っているので、ある意味仏法を真面目に伝えるところに力を入れた方が、よっぽど振り向く人がいるのではないかと思っている。ヒアリングの結果、そう思わざるを得なかった。

 

あと、匿名で書いてしまうので大変申し訳ないが、聞法者としての自分の気持ちを書きたいと思う。これは、独白であり、誰かを非難するつもりはない。みなさま自分のやり方で進んだらいいと思う。自分のことはほんとうにちいさいことだが、一つの声として残しておきたいと思う。一連のTwitterの流れを見て思ったことだ。

《聞法者としておもったこと》

最初は完全女体化したような観音さまの萌え絵御朱印に関して、他宗の方が心を痛めている様子を目にした。門外漢の自分でもそれはないだろうと思う絵だった。他宗界隈でつぶやかれている内容をみて、同じ信仰を持つものとして心が痛かった。自分の大事にしているものが蹂躙されている。その痛みを思った。なにもする立場ではないが。

それと同時期に某カレンダーの話が出てきた。内容見ているわけでもないが、自分はなぜ僧侶が自分に「スター」とつけようと思ったのかまったく意味がわからなかった。一般人感覚でも違和感があるが、真宗の聞法者としては理解不能だった。僧侶の側から平等を棄ててどうするというのだろうか。でもそれだけだった。別に流していく話だった。

その後、某裏カレンダーが上がってきた。これも自分はなんとも思わなかった。ああ、またか。と思っただけだ。普通の人が見て仏教から遠ざかることだけは残念だなと思っていた。僧侶の方がやっていることだし、聞法しかしていない自分は残念だという気持ちを最初にリンクしたツイートでのみ示した。それだけだった。いくつか作られたものがあがっていたけれど、ちゃんと見られるものもあったと思う。それで自分に関わることとしてはもう終わりだと思っていた。

裏カレンダーに異を唱える人がでてきた。そのすべてを見ているわけではないが、裏カレンダーを応援する側から非難されることに対して、「法難」という言葉が出てきた。重い。この言葉は重すぎる。否定的つぶやきを直接ではないけれども行った自分は、「仏法を広めることのさまたげ」なのだということか。すごくショックだった。そのような対立なのかと愕然とした。

ちょっと婉曲に書かせていただく。自分は、真宗は聴聞一つをすすめていると思っている。なので、「お聴聞をする人」という我々を指す言葉、これは僧侶の方も含めて真宗は皆「お聴聞をする人」なのである。この言葉を軽くすることに関しては非常に苦痛である。大事にしている「お聴聞」という言葉なので、自分はそれが悪意はないとしても蹂躙されているのを見たくはない。これは、自分一人の意見ではないから書いておく。

裏カレンダーでの対立をみていて、すごく悲しくなった。なぜなんだろうと考えた。自分には関係のない世界なのに。今日なんかそれがわかった。両方とも、お聖教の言葉であったり、親鸞聖人の教えであったりを掲げて主張しているからだ。ああ、そうか。その中には浅学な自分でもどうかと思うこともあれば、まあそういう考えもあるだろうなというものもあった。「法難」をお聖教の言葉を掲げて仏教界の中だけで戦ってるから悲しいんだ。ああ、そうか。そこに一般人っていない。自分も完全に一般人かというと、聞法者だ。仏教界の人間だ。内にしか敵がいないんだ。それは敵なのか?悲しすぎる。

自分にいろいろ教えてくれる人、僧侶も知り合った人たちも、とても言葉を大切にしている。経典にしろ、教行信証のような親鸞聖人の書かれたものにしろ、ひとつひとつ単語を大事にして解釈してそれを伝えてきて今聞かせていただいている。サールナートの初転法輪も、親鸞聖人のお言葉も、蓮如上人の御文章も、言葉によって今届けていただいている。そんな学びを自分もし、御同朋と分かち合い、法話をお聞かせいただいて今がある。わからないなりに、いろんなお育てをいただいている。微力だけど、周りのひとに仏法をすすめることもしている。大胆にできないけど。伝える言葉は、大事だ。

いろんなものをみて、悲しくなった。でも、自分はいままでとかわらないでやっていこう。今日は言わなくてもいいことをいっているかもしれない。でも、これからも同じようにやっていこう。そう思って書き残す。