如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

浄土真宗に生きているのかという自分への問い(尾畑文正師)

土日、いろいろ出歩いているのだけれど、時系列ぶっとばして今、この記事をまず最初に書きたい。

 

 

真宗本廟(東本願寺)報恩講

第27回 真宗教学学会講演会 テーマ 大乗の至極ー浄土真宗ー

講演② あえて「真宗は大乗仏教なのか」と問うてみる

     尾畑 文正 師

 今日はこの講演を聞くことをちょっとためらう自分がいた。以前ブログにイデオロギーの主張がある方だったので書いたことがあるからだ。でも自分は、今回の報恩講はいけるところは全部いくと決めていたので田畑先生のお話に続いて、そのまま聴講した。

 本日の尾畑師は、「自分は本当に浄土真宗に生きているのか」という問いを、学生時代の発端から今もずっと自分に問い続けている尾畑文正という人間の信仰の告白だった。

こんなに正直にといういか純粋に自分の心をさらけだした告白をこのような講演という形で聞かせていただくとは思わなかった。

ベトナム戦争への反戦運動が活発な中の学生生活。そのさなか、友人で宗門大学に在籍する平和運動活動家から投げかけられた言葉。「あんたたち坊さんは、親鸞を担いでいるだけで親鸞を生きてはいない」。この衝撃的な問いをずっと考えてこられたと。活動のなか、「差別主義者とは一緒に活動できないと」去っていた外国籍女性。自分にはそういうものがあるのだろうかという懊悩。これら心に持つ自分への迷いを胸に、曇鸞大師の「浄土論註」を学び、真宗学に向き合われた。社会をしっかり見据えること、迷いの世界をわが身の問題として、現実認識から考えようと、わが身に引き当てて考えていこうという「自分の考え」が出来たという。

「自分の考え」を元に、その後もハンセン病差別問題、基地問題など真宗と現実問題を結びつけて考え、それを実践されてきた。

三年半のブラジル行きも、「解放の神学」の地で学びたいと行きたかったと。そしてそこで学んだ事が今に活きていると。

そして最後にやはり最初に立ち返って、「私が浄土真宗として生きていない事を考えていくということが私の課せられた問題」とおっしゃる。

今日はこの会場に来る前に友だちと話をしていて、もう亡くなった方の法話の話を聞いた。「一番大切な問いは、自分にしなさい」という言葉。自分はハッとした。

それがこの話を聞いたときに思い出された。ずっと自分に問いかけられ、真宗を学ばれ、今もずっと向き合われているのだ。

今回、途中、「政治の話はしません」と尾畑師がおっしゃった。そのとおりだった。紹介された例示はあくまでも尾畑師が真剣に向き合った「自分の考え」で行動されている姿だった。自分はそう受け取った。

 また別途書きたいと思うが、講演①の田畑正久氏のお話の中に、「宗教は全体的なwhyに答えるもの」いうものがあった。まさに尾畑師が学生時代からどうして浄土真宗として生きていないのかという問いをされているそのものだなと感じた。宗教者の姿だ。

 冒頭、失礼ながら、「自分の心をさらけだした」と書かせていただいたが、これは聞いた人間でないとわからないと思うのだが、自分をよく見せようとか、取り繕うとかそういう大人なら誰でも出てしまいそうなものを感じなかったのだ。ご自分の本当の気持ちをお話しいただいていると自分は受け取った。なので、告白という言葉も使わせていただいた。そして尾畑師の人間味あふれる優しさを感じずにはいられなかった。

 「自分の考え」の結果がどういうものなのかは、人それぞれになるかもしれない。自分は本日のお話しで、現実と真宗の生き方を合わせて考えるという尾畑師のやり方を自分なりに考えてみようと思った。その「現実」というのは、尾畑師のたどり着いた「現実」とは違うかもしれない。少なくとも自分はこの真摯な尾畑師の問いを目の当たりにして、自らはどうだろうかということを考えさせられた。

素晴らしいお話しをお聞かせいただき、お育ていただきました。

 

南無阿弥陀仏