如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

「お取り次ぎ」ってなんだろう

雑感。

素朴な疑問である。お聴聞させていただくと、「お取り次ぎ」という言葉を聞くことがある。誰から誰に?そもそもどういう意味なのだ?と思ったので、Googleさんに聞いてみた。ヒットするサイトの感じから、どうも本願寺派の方が多いような。確かに本願寺派の方の法話の時に聞くなあと思った。

 「お取り次ぎさせていただく」「お取り次ぎです」っておっしゃるので、法を我々に届けてくれているということを意味しているのだと理解している。

今年継続してお聴聞させていただいて、基本的に以下のように感じている。

・お聖教のそのままの話を聞くととてもお聞かせいただいているなと思う。

・講師のご自分の話が多いと、本来お話しいただいているはずの内容が見えなくなってしまう。

だが最近、これだけではない要素を感じるようになった。

自分はたまたまご高齢の講師の方のお話しを聞くことが連続であった。ご年齢のこともあるだろうが、同じお話しがぐるぐる回ったり、終わりが見えなくなったりするということに遭遇することもあるわけである。もちろん自分はお聴聞のすべてをブログに書いているわけではない。そういう、ああ、今日は終わったときに自分はどのような感想を持つのだろう・・・という心配を抱いて始まる法話であっても、突然後ろから殴られたように「今日はここをお聞かせいただいた!」という瞬間に出遇う。

先ほどまで「もう最近運転が危なくてね」なんて話をずっとされていた講師の方のお話しから突然の「つながる」瞬間。これはいったいなんなのだろうとずっと思っていた。

聞法友だちに聞いたら、やっぱりそういうことがあると言っていたので、自分だけではないようだ。

先日の尾畑先生のお話しをお聞かせいただいたときにその理由がちょっとわかった気がする。「お取り次ぎ」されている内容は無量寿経だったり、観経だったり僧侶のみなさん誰もが知っているものかもしれないが、講師によって同じような内容を話してもまったく違って感じるのは何故なのか。自分はそこにどれだけ話し手がそのテーマやお経など対象に向かって真剣に向き合っていたのかということが重要なのではないのかと感じている。その部分こそが「お取り次ぎ」となるのかなと思う。自分の感覚では「つながる」瞬間だ。

あるときに、楽しいお話しをすることで定評のある講師の方のお話しをお聞かせいただいた。笑いがあり参加者のみなさんはとても喜んでいらっしゃったが、自分はなんか不思議な感じだった。面白い例えをたくさん出していただき聴きやすいのだけれども、「法」のところがどうしても薄く感じてしまって、「つながる」感じがなくてもどかしい状態。今思うと講師の方は、「聴聞者を楽しませる」と「お取り次ぎ」の二つを大事にしていたが、どうしても前者が勝っていたのだ。だからなんとなく不思議な感覚になったのだ。聞こえないわけではないのだけれど。でも講師の方が「聴聞者を楽しませる」に集中されているのであればそうなるかなと感じた。

また別のとき。たまたま知り合った若手の僧侶の方。同い年ぐらいの僧侶の方と「言葉としては」変わらないことをお話しされるのだけれど、まったく違って聞こえてみんなが惹かれる。これは後でその方がどのように仏法に出遇ったかを聞き、そういうことかと思った。ご自分ではおっしゃらなかったが、端から聞いて、独りの人間として本当に仏法を求めているのを感じた。それが言葉から伝わってきた。その方の使い込まれた真宗聖典がその一端を語っていた。その日は持ってこなくてもいいはずだったのだが。

いままでブログに書いてきた「お聞かせいただいた法話」のそれぞれを振り返ってみると、やはり自分がポイントとしてあげているところはほとんどすべてお話される講師の方が力を入れて勉強されたり大事にされたりしているところ。それをちゃんとお取り次ぎしていただいているわけだ。ご高齢の講師の方からの不意打ちされる感じも、きっとその部分でその講師の方が真剣に向き合われたことをお話しされていたのだろう。

と考えると、「聞いたそのまま」ということもよく聞くのだが、お聴聞をする方が「聞いたそのまま」でいるためには講師の方が真剣に向き合ったことについてお話しいただくとそうなるのかと思う。

そうだ。我々は真剣に仏法を求める僧侶の皆様のお姿を通して語っていただいているのだ。だから講師の皆様のおっしゃる「聞いたそのまま」というのは、講師の立場から言うと、ご自分が真宗に真剣に向き合われる姿、学びのことであろうかと思う。それは問いに向き合う途中の姿でもいいのだと思う。安易なヒューマニズムに結びつけたものではない。がんばってるからすごいとかそういうのではない。全部わかってますとかそういうことではない。わからんことに向き合われている真剣さなのだと思う。だから年齢とか権威だとかは関係ないのかなと感じている。お念仏は一緒。法も一緒。人によって違う事じゃない。

ちなみに「聞いたそのままお取り次ぎ」という言葉は字面だけだと「習ったことをそのままいうだけです」という開き直り宣言に思えなくもない。一部、法話を聞いてもそう感じてしまうときもある。「聞いたそのまま」というのは、とても難しいと思う。分別しかない自分が聞いたそのままなんでそう思って聞いてほしいなのか、自分の聞いたものは確かだから聞きなさいなのか。いろんなことを思う。わからんから聞かせていただいてありがたい一辺倒は話す方も聞く方も思考停止している。本来はそうじゃないかもしれないけどそう感じてしまう。

そう思うと「聞いたそのままのお取り次ぎです」は教義の正確性を言っていることもあるし、自分の受け取りを曝け出していくこと宣言なのかということもあるな。講師の方には重い言葉だなあ。

話は変わる。実は尾畑先生の講演に関しては、自分は行く気がなかった。聞法友だちと話していて、「いってみたら?」といわれ行くことにした。なにかわからない背中を押す力、そこに向かわされる力を漠然と感じざるを得ないときもある。なんのエビデンスもないわけだが。今回はこの友人にとても感謝している。背中を押してくれなければ、自分はあの空間にいなかった。お取り次ぎまでつないでくれた力。

以上、報恩講期間の雑感。