如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

生死一如。死という観念を創って死を怖がるという苦。(田畑正久氏)

ちょっと書きたいことがたまっているから遡る。

2019年11月24日(日)

第27回真宗教学学会講演会

講演① 「医療と仏教の協力」 田畑 正久氏

http://m.shinshuhouwa.info/article/index.php?id=45769

医師の立場から、仏教と医療を合わせて実践するという視点からお話しをいただいた。

冒頭、西欧と日本における医療の現場での宗教者の立場の差を聞いた。アメリカでは、宗教者は病気で入院した人にお見舞いに行くことが仕事。病院の入り口はフリーパス。現在、日本の僧侶は亡くなった後の葬儀から関わっていくことが多いが、仏教は生きた人間を相手にする時代なのだと。それは本当にそうだと思う。亡くなった方の遺族は葬儀で仏法に出遇う機会をいただけるが、極力生きている人間が生死の問題に 直面した際に聞きたい話であることは間違いがない。

生死の問題を共有し、医療ー仏教のチーム医療をしていく。患者の苦とは、私の思い(元気になりたい)と私の現実(病状、痛みなど)とのギャップによって生じるもの。それを科学である医療で埋めていくものの、それが難しくなったときに、「老・病・死」の苦を受容することを仏教で伝えていく。ああ、自分が死に直面したときは、こういうことが行われる環境であってほしい・・・。

「生死一如」。毎日人間の細胞は1/200を壊して、新たに再合成しているとのこと。その際にコピーされる遺伝子情報のミスコピーで病が発生する。そしてミスコピーの累積結果、再合成が止まっていくのが死なんだと思う。客観的に見たときは細胞の死滅と再生でしかない肉体。ここは唯識を思い出した。そこに「死」という決定的な判断基準を置いて死を恐れるところに死苦がある。というお話し。科学は計算的であり、「what」「how」のことには答えられるが、仏教は全体的であり、「why」に答えるものであるという。全体的に死を見たときに、人は「なぜ生まれてきたのか」「なぜ今病気なのか」「なぜ体が動かないのだろうか」というようなことを考えているのだと思う。そういう問いを持ったときに得られる気づきが現実の受け止め方を変えていく。「老・病・死」の苦を受容することにつながる。

自分の死に関しては、そのときにならないと受容できるかどうかもわからないし、想像しても想像しきれないが、こういうお話しを今の年齢で聞いたことでこれから死を前にした人と接するに当たり、考えることが出来るかと思った。

 

このお話を聞いた後に、厚生労働省の「人生会議」のポスターが、ガン患者を傷つけるということで非難され、配布取りやめになったというニュースを見た。

真宗の教えからすると別に問題ないような気がしてしまうのだが、生死の問題に今直面している人には後悔と苦しさしか与えないだろうなとは思った。思い切って病院関係には貼らないで、車内広告や交通機関の駅など元気に活動している人がほとんどの場所に掲示すれば問題ないのでは・・・とも感じた。そういう死を日常に置かない人に興味喚起したい内容だと思う。ちなみにあのポスターはガン患者イメージだったのだろうか。不慮の事故でも通じそうな気もしたが。

お寺じゃなくて病院での仏教というお話し。仏教に興味がない方でも考えさせられる内容。論理的に仏教が医療の場に必要とされる状況までをうなずいて聞かせていただいた。