以前読んだ稲城和上の遺稿とご縁のあった方々の追慕文集。
「浄土真宗の教えの要」として他力本願を逆対応という見方で他の宗教と一線を画しているところを明確にされている。自ら聞くに先だって、仏の南無阿弥陀仏が与えられているということ。「間に合いすぎるほど間に合っている」。
回りくどいことは言わないで、仏教の核心についてそのものを語られている印象。
間違いないと思っているのは私の側である。
自力の信心と言うことは主義化することであり、自らの信ずるものの他はすべて悪魔の如く思われるのである。
このような自是他非の汝をたたくものが信心ということになる。このような宗教は愛を表看板としてもあらゆる闘争の原因となるものである。
自分が社会問題を教団で公式に取り上げない方がいいというのはこの点がある。どうしても社会問題は主義化してしまうものだからだ。個人が信仰の中で行き着いた先で個人で活動されることは大いに結構だ。キリスト教と違って仏教は主義化に反する構造であるからだ。
仏願の本末が名号そのものの内容である。生起はこの私のたすからない心配であり、本末の本はわたしのたすかる心配である。この私の心配はそのまま仏願の上に私の心配するに先立って仏願の内容となっているのである。このたすかる、たすからない心配の無用となっているのは本末の末であり、この果末とは成就を意味する、この心配の無用の方が自ら聞くより先に私の上に既に与えられているのである。
もうなにもいうことのない文章だ。
後半の追慕文集は、まったく知らない稲城和上の生前の布教の姿が忍ばれる。妙好人の本を読んで思ったけれども、その方自身の言葉もいいが、周りの方がどのようにその方に関わられていたのかというのを感じさせてもらうのも素晴らしいと思った。
稲城和上の著作を何か読まれてからこの本を手に取られることをおすすめする。
ちなみに自分は聖典セミナーの無量寿経を読む予定。
■以前読んだ本のレビュー