如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

人が「これでいいんだ」というとき

仏教と関係ない話。

 

先週一週間休んでいた隣の課の同僚が昨日から出社だった。

周りには永年勤続休暇といっていたが休みに入る直前に、奥さんがあまり良くない病気の手術で入院するので休むと個人的に教えてくれた。

昨日は残業で最後二人になったので、手術はどうだったのか聞いた。自分のその質問に彼はこう答えた。

「・・・家にいてさ、ちょっと転職のことを考えた。ネットで自分の価値を調べたんだけど、今ここにいる方が給料はいいんじゃないかなって思った。もうな、俺は死ぬまで自分のやりたいこととか夢とか希望は持たない。ここでやっていく。これでいいんだ。だって給料をもらうために労働をしているだけだし。これでいいんだ。」

彼はものすごく優秀だ。会社がいい方向に行くために信念をもって仕事をしているのを自分は知っている。それをサラリーマンとして押し込めなければいけない局面に何度も何度も遭ってそれが辛いのも知っている。そんなときに少しでも彼の思うその方向に向かうよう力になってる人たちが少なからずいる。自分もその一人だ。

会社を辞めてでも自分が思う仕事をしたいという一面を持っていることも、どんなに家族を大事に思っているかも知っている。

自分がした「手術はどうだった?」の答えはなかった。

「親父死んだときに、鹿さんと死んだらどうなるの話したよね。鹿さんは仏像が好きなんじゃなくて仏教が好きなんだよな。俺は宗教とかわかんないな。でもこういうとき、人間ってそういうところに向くんかな。でも、俺はこのままでいい。」

といった。今年の春に彼のお父さんが突然亡くなった。仕事の繁忙期と重なって大変だった。そのときも残業しながら「死んだらどうなる」みたいな話をしていた。割と本気で還相回向の話をした。彼はその話を言っているのだ。

「このままでいい」。その言葉の裏にある、彼の「本当はこうしたいんだ!」という叫びが聞こえてくるようだった。彼が自分に言い聞かせる言葉を聞けば聞くほどそこに込められた様々な思いが自分の心にも流れてきた。いまのままでいてほしい家族、挑戦したい仕事、。

「鹿さんは、自分はこのままでいいとか思わないで、どんどんいろんなことするんやろな。すごいな。」

なんて言葉をかけようかと思っていたら、彼がそう言った。

「まあ、次の君の提案の腰を折られないよう、全力でサポートするのがどんどんやるいろんなことのひとつやな。君は信念貫く、これでいい。じゃないか。」

と自分は返した。

「そうやな。やれることしかやれへんからな。鹿さんも大変なん一緒やしな。」

といって彼は笑っていた。

 

こんなに苦しむ人を目の前にしたときに、阿弥陀さまの救いについてどう伝えたらいいんだろうとぐるぐる考えた。自分はまったく気の利いた返しができなかった。逆に苦しむ同僚の姿は、自分も同じなのだと実感するばかりであった。仏法を求めていても、そのように生活できない自分。先日報恩講で聞いた本多先生の「片足を濁世、片足を浄土において立ち上がる」。そうありたいけど。

今日も一日、彼も自分も淡々と業務をこなしていた。胸に去来するさまざまな苦と共に。