如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

五障三従の女人のこと(平等良香師)

久しぶりにきた。

しんらん交流館定例法話 平等良香師(福井教区)

http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=47370

 勤行の時に後ろから張りのある女性の声がした。いい声だなあと思っていた。

「今日の講師の先生・・・」と司会の方がいうと、後ろからその方が前にいらっしゃった。お声からものすごく若い方かと思っていたが、白髪の入ったショートカットが爽やかですごく笑顔が素敵な女性の僧侶だった。一緒に勤行される方が珍しかったのでびっくりした。今日は平等先生の柔らかなお話しが少しでも伝わるように、箇条書きでなく書きたいと思う。初めて真宗大谷派の女性僧侶のお話を聞いた。

「先ほど集会所でご法話してきたんですけど、土曜日だからお子さんもいらしてね。子供の声がするんですよ。小さいときにこうやってここに連れてこられて。それがご縁になって。仏教をたしなめよということですね。」そうだ。自分もそうやっていまここにお聞かせいただきに来ている。

 今日の御文から。「4月25日の春の日、蓮如上人が50半ばでもう死がすぐそこに来ているのだといいながら、ねむたいねむたいとおっしゃっているんですね。もっと長生きされるわけですけど。今日はそこがいいなと思いました。」と明るくお話しを始められた。

昨日から常例法話をされているせいか、いつもの常連の高齢の女性方が前のめりにうなずいて聞いていらっしゃる。そういえば今日は女性の方が多いなあ。人数は少ないけれど。

「読まないことになっていますけどね、蓮如上人が吉崎は寒くて嫌だとおっしゃっている御文もあるんですよ。吉崎では読めませんよ。蓮如上人は冬の寒さをご存じだったからほんとうに春の暖かさが解られたんでしょうね。春を喜べる。」

「”命のうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、御こころえあるべく候ふ。”・・・ああ、今日は質問ありますか?困ったところだわ。なんでもわからないことは解決しておくことということなんですよ。本山の報恩講でもじっとお話しや御文を聞いて、わかったような顔をしてありがとうございましたって帰って行く。わからないことをわからんままにしていると後悔するということです。

わかるわからないのお話しでいうと、こんなことをいっちゃいけないけど、私は曽我量深先生の本は難しくてわからない。でもいつもお話を聞かせてもらっている人、知っている人の本だったら、本を読んだらお話しが聞こえてくるんですよ。」

直接お話しを聞いて伝わるものの大きさをおっしゃっているのだなと思う。自分もそういう所がある。

「今日はね、事前に聞いていたのですが、晨朝の御文が五帖目第七通 女人の身は五障・三従とて男まさりて、かかる深き罪のあるなり のところだったんです。法話で触れないわけにいかなくてどうしたらいいかわかりませんと法話でいいました。」

男女差別の観点から、そこが問題視されているのは知っていた。前に座っていた御同朋が、「定例法話ではもうよみません。それは。」とおっしゃる。

「これね、この御文だけ読まなければいいのかというとそういう問題ではないように思うんです。今、とてもものがいいにくい世の中になりましたね。いろんな人がいます。男って何?女って何?心が男?体が女?いろんなことがあります。この件に関して、私は男の体で考えるということが出来ませんね。自分が正確に自分の心がなんなのか、どうなんでしょう。だからわからないんです。例えば、いつもどんなことしているかわかっている住職の父がこの御文を読んだら、”何言ってんのよ!”という気持ちに正直なりますよ。読まないで欲しい!と。でもこれはただの感情の問題です。女性に障りがある。蓮如上人がこれを書かれた時には差別というか区別というかそういうものがあったと思います。でもこれは蓮如上人がそう思って書かれたのではなく、吉崎で働き生きている実際の女性たちを見てわざわざ書かれたのではないかと思うのです。」

「寒いときに海に入って岩のりをとり、畑もし、食事も作り、ありとあらゆることをしてたくましく生きている女性。そういう人は当時とかわらず今もいるんですよ。本当は男も女も関係ないんだけれどね。たまたま女性がご飯の心配をすることが多い。今日は何を作ろうか、何を買って帰ろうか、そういうことで頭がいっぱいになっているのは罪なんでしょうかね。でもそういうものなんですよね。男性でもあることだと思います。そういう厳しい自然、環境の中で生活を支える女性たちを見た蓮如上人が、この人たちのためと思って書かれたのではないのかなあと思うんです。当時は本当にそういう差別、区別がある中で書かれているわけですから。」

「この御文を読まなくなったら、蓮如上人がこの御文に込められたものが聞けなくなってしまう気がします。なんでも古いものが壊れたとかよくないとかでなかったことにするのはそれでおわりでいいのでしょうか。だから私はどうしたらいいのかわからないということになるのです。わざわざ女性について触れていただいている。女性にとっては我が身を振り返る言葉がなくなるということでもあります。考えていくといろんなことに縛られていきますね。」

「さきほどの和讃も”いつつのさはりはなれねば 女身をいかでが轉ずべき”でここでも女性についてでてましたね。今日はそういう日ね。」

そんな平等師の朝から思い巡らされたことをお聞かせいただいた。この御文や和讃について話さなければならない一日だ。女性というある意味当事者の立場の僧侶としてお話しするのは重いだろうな。でも平等師の態度は明瞭でそうだなと思うものであった。

 

自分はどう考えるか。帰ってから御文をよく読んでみた。その時代の言葉と想いが入っていると思えば特に問題があるようには感じない。平等師のと同じでわからない。それが嫌だという人もいるだろうし、蓮如上人のお言葉が伝えられなくなってしまう(公の場といういう意味で)のはとても残念なことだと思う。

女性の立場からの発言を求められていたと思うが、平等師はとても”人間”だった。そこにジェンダーの対立はなかった。不思議な方だなと思った。とても優しく明るくお話しされるが、女性であることがわからない感じというか魅力がある。きっと平等師が”人間”として話されているからなのだろうな。自分もそういう”人間”でありたいと思った。

本当にいいお話しをお聞かせいただいた。