今年初のお聴聞。
2020年1月12日(日)19:00~21:00
玄照寺お七夜法話会
仏に成るべき身となる ―浄土真宗の信心―
浄土真宗本願寺派 震動山光明寺住職 松原大致師
http://m.shinshuhouwa.info/article/index.php?id=47826
ありがたい、感動的な法話ではない・・・!!!という宣言のとおり、本当のことを知らされることへの拒絶感、本当のことを知ることが不幸だとされる価値観。そこを越えて開けてくる世界の事についてのお話だった。
「仏(ぶつ) "に" 成るべき身 "と" なる」というテーマの"に"は、自然となる、当然なっていくものの意味があり、"と"には断絶があった上での結果の意がある。親鸞聖人の言葉を大切にされた解釈になるほどと思う。
その"と"がつく所以が今日お話しの中身。
居心地のいいところにいたい、自分がいつでも正しくて、健康、お金、人間関係がよかったらそれで満足できると思っている自分。
廣瀬杲師の「死ぬまでに絶対に出遇わなければいけない たった一人の人間は自分自身だ」という言葉を引かれて、本当に深いところで自分に出遇っているのかと言うことを問われる。
今日のお話の肝は最後15分の松原師の体験談だと思う。詳細は控える。お子さんの急病でいっぱいいっぱいになって、その状態を乗り越えた後での体験。亡くなったお父上の南無阿弥陀仏の受け取り。
体験として出てきた南無阿弥陀仏を松原師は、「自分の本来の姿を気づかせてくれた働き」とおっしゃっていたが、自分はそれだけではなくて己の姿に気づいた松原師と法蔵菩薩の誓願と阿弥陀仏の救いの同時性を感じた。自分の姿に気がつく=「お前はそれでいいんか」のお父上の言葉。気づいただけじゃない。あくまでも自分の感想。
松原師はあまりこういう話はされないとおっしゃっていたが、この体験談を普段の法話でされていないのであれば、たくさんこのお話をされて自分の耳でも聞いてと繰り返されたらいいのにと感じた。自分はこのお話を何度でも聞いてみたい。きっと毎回新しく聞けると思う。
お話しの詳細を書かないから読んでいる方々はちょっと意味がわからないかも知れないが、このお話はこんなところでネタバレするものじゃないと思うので、是非松原師のお話を直接聞いていただきたい。
本当のことが痛い自分にまず気がつかされるお話。