如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

深く深く照らされて知らされる(松原大致師)

二日目もお伺いした。

2020年1月13日(月)10:00~12:00

玄照寺お七夜法話会

http://m.shinshuhouwa.info/article/index.php?id=47826

仏に成るべき身となる ―浄土真宗の信心―

浄土真宗本願寺派 震動山光明寺住職 松原大致師

 昨日の引き続いてのお話し。紆余曲折の末、仏に自然になれる身"と"なるまで。メモをピンポイントで。

・真宗の教えは同じ所をぐるぐるしている感じがするが、それは上から円を見ているような者で、横からみたらそれは螺旋状になっている。そういうものだと思う。同じ所にいるようでそうではない。

・「身」という言葉を親鸞聖人は多用している。心の問題ではなく存在の問題。

・「智慧をならい学ぶ」というのは、"仏さまのまねごと"をしているのではない。自分の実感は関係ない。自然と内から突き上げてくる変化。

・人は自分を中心に回っている。自分で箱のような枠組みを作って、そこに入れないことに自分で苦しんでいる。

・「信じる」というのは疑いが残っている。

・「疑蓋」:これさえあれば大丈夫だと握り締めているものがあるために、蓋が閉じている。阿弥陀さまの救いはこれをこじ開けて入ってくる。自分で外すものではない。

・法の深信:阿弥陀さまの働き

・機の深信:「身」(自分自身を)深く深く照らされている。

 

そして最後に、お念仏申す人に出遇うことについて話される。布教使の方であったり、一般のお聴聞をされている方、念仏者と呼ばれ人が集まってきている方。そういう方と出遇うことにより、自分が阿弥陀さまに捕まれていることを体験される。そしてそのときはわからなくても、後になって、「ああそういうことか」と思うことがあるという。

お念仏でどうなるということがわかっていない身でも、阿頼耶識のような自分の深い深いところにお念仏が届いているということが言える。「浮かべ見る、浮かべ知る、浮かべ思う」ことがある。気がつかない内に深いところから浮き上がってきて、自分に知らされる、目覚めさせられることがある。見えないお育てにあっているということ。

自分はこういった一瞬走る感覚があるが故にお聴聞を続けている。それが大事だと思うからだ。

そして、いろいろな体験を通して、光に出遇ったこと(仏に出遇ったと思うこと)を握りしめて振り回すのは自分だということを忘れてはいけないという。深まっていくことの大切さと自分に対する何度でも起こる気づき。

親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。(歎異抄 第九条より)

 これはいつまでも続いていく話。"ありつる"は現在も状態が同じであることを現わしている。過去ではない。

省みるのは自分ではない。深く深く照らされて知らされる。

 

こんな言い方をして申し訳ないけれども、昨日来て今日来なかった人が聞いたら残念がるんじゃないだろうかと思うくらい素晴らしかった。

お東のお寺だからおっしゃることもあったと思うのでそこは「分別」して書かないが、全体的にとても踏み込まれていて、ご自身の歩みを見せて下さったとても深いお話だった。後半30分、メモをとることができなかった。

 

松原師はお話をお聞かせいただきたいのはもちろんのこと、一緒にお聴聞してお話ししたくなるような「聞く」ことを本当によくされているのがわかる方だった。

このいいお話しを握りしめることなく、また松原師にお聞かせいただきたいと思う。ぜんぜんほっこりしない深い深いお話、ありがとうございました。

 ◆昨日の感想

luhana-enigma.hatenablog.com