如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

願いに生きていく(瓜生崇師)

光慶寺 正信偈講座(五)

19:30~21:00 瓜生崇師

http://m.shinshuhouwa.info/article/index.php?id=44619

今日は、『法藏菩薩因位時~超初希有大弘誓』まで。レジメは。

太字がメモ。普通フォントが感想。

 

【独死独生】

・一人になりたくない。必要にされた私。「心口各異」で嫌われたくないから自分の思ったことをいわない。自分に嘘をつく。「わたし」とって安心・不安、良悪、正邪を分別して「わたし」という殻を作っていく

・信心:救われる救われないの境界を作った瞬間にまた自分の殻が出来てしまう。

→このお話はいつもお聞かせいただくが、毎度ああ、そうであったと思うことがある。毎回新しく思う自分。

・映画『マトリクス』:仮想現実の世界で幸せになる。それもいいなと思うが、本当の自分はそれにうなずけない。

・本当の「わたし」は「わたし」の殻のような心が破られて、一切平等の世界に目覚める、広い世界にあっていくということを望んでいる。しかし「わたし」はいままで作ってきたすべてを捨てられない。

・「救いを必要としながら、わたしたちは救いを恐れています。すべてを差し出さねばならないからです」(ローマ教皇の言葉・検索したけど正しいのはちょっとわからない)自分の殻を破るのは誰しも恐い。わたしたちは阿弥陀様に背を向けている。

→いつもこの”本当のわたしの願い”に気がついている人っているのだろうかと思う。自分では顕在的に理解していなくても、深層で思っているからお聴聞するのだろうなと感じている。

 

【第十一願】

・阿弥陀仏の浄土を作った。

・そのまま読むと、「この浄土に生まれたら修行して悟りを開く」となる。天台宗の解釈。往生しない人がいる。すべての衆生にならない。釈尊の仏国土にいる「わたし」は救われない。

→素直に読むと言うことは大事だな。

 

【第十二願・第十三願】摂取不捨

・どこまでも私を包み込む光、そして永遠の命(時間)を与えることにより、おわりのないかくれんぼ、阿弥陀さまに絶対捕まえられるかくれんぼになる。

法蔵菩薩

南無(私の名前)阿弥陀仏(法蔵菩薩の名前) 

              法蔵菩薩が「わたし」と一つになった名前

わたし(がいなかったら法蔵菩薩は阿弥陀仏になれない)

・南無阿弥陀仏は個人の名前ではなく、救う者と救われる者を区別しない呼びかけ

 招喚=勅命(逆らえない)

・絶対諦めないと言われたら従うしかない。

・聞其名号:其=諸仏称名

      法蔵菩薩が南無阿弥陀仏になって「わたし」を貫く→呼び返す

→今ここの南無阿弥陀仏、この空間にいる人間たちの南無阿弥陀仏を一気に別次元で考えさせられる。

 世界でわたしたちを救うという法蔵菩薩の願いの解説がいままであやふやだったところが図となって見えた感じがする。最高潮の盛り上がり!!!

 瓜生師のお話はいつも阿弥陀様の光に照らされるべき「わたし」に気づく時間が法話であるのだ。その状態で聞く法藏菩薩の呼びかけの話は「クル」のだ。

 

【諸仏】

・この流転し続けた「わたし」を南無阿弥陀仏に出遇わせたすべての人・ものが諸仏で 

ある。

→「ここにいる人は、いままで全力で法蔵菩薩の願いを拒否してきた人ですよ。だからここにいるんですよ。ずっと流転してきて。」とその前に言われていたので、いまここで南無阿弥陀仏に出遇っているということを思い知らされる。瓜生師はもちろん、場を提供して下さった住職、そして一緒にこの場にいる知らない者同士ではあるが、諸仏。そしていままでの人生で出遇った人すべて。だから「わたし」だけが救われる物語ではない。

 

【君は君の願いにいきてゆけ】

 瓜生師が今もお聴聞を続ける宮田公子師。宮田師が寺を預かるときに、「あなたは平成の親鸞聖人になって下さい」と言われた。今度は宮田師が瓜生師に「あなたが令和の親鸞聖人になって下さい」とおっしゃった。

 これだけ書くと、瓜生師の増上慢に聞こえるが、そういう話ではない。

 林暁宇師の『君は君願いに生きていけ』という本からお話しがあった。林師はたまたま仏教雑誌の文通欄で知り合った女性に『暁烏先生の弟子になって仏法に出遇って欲しい』と願われる。そうして背中を押されるように暁烏師の元に行き、「私を通して仏法に出遇っていくような、そんな存在になりたい」という。そして表題が暁烏師の言葉。

 「令和の親鸞聖人になる」も「私を通して仏法に出遇っていく」というのも、なんと大それた事をという人がいるが、でも誰もが人を通してしか仏法に、南無阿弥陀仏に出遇えないのである。法話しかり、仏教書しかり、聖典だってそうだ。知らない誰かから誰かに伝えられて今ここの「わたし」に届いているということなのだ。『諸仏』。

 あなたもわたしも『諸仏』。それを願いとしてかけられるかどうかの違いかもしれない。願われたら逃れられない。それは単なる人から人への願いではなく、その底には法蔵菩薩の願いが働いているのだから。それならば自分も自分に願いをかけたい。「自分の書いたことを通して仏法に出遇う人がひとりでもいますように」。そんな願いをかけられた人の話に出遇えているか。法藏菩薩の願いに突き動かされたお話に出遇っているかもしれない。『諸仏』。願いに気づいているか。誰かに願いをかけられるということはすばらしいことだ。そうなる前に突き動かされる何かがあれば自分にもかけてもいいではないか。法蔵菩薩の願いを聞いて。

◆2019年おすすめ仏教書3冊に入っております。林暁宇師の本。

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