如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

法性法身を捨てた阿弥陀仏(瓜生崇師)

光慶寺正信偈講座(六) 瓜生崇師

2020年2月2日(日)19:30~21:10

http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=44620

普放無量無辺光 無碍無対光炎王

清浄歓喜智慧光 不断難思無称光

超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

※太字が要約、普通フォントが自分の受け取り

【なぜ光と表現するか】

・わたしが暗いから=わからない=怖い=無明 を照らすものだから

・自分がなんで生まれて生きて死んでいくのかわからない。

 

【生きていくということ】

・「狂人のオリンピック」 芥川龍之介 『侏儒の言葉』より

 他人と比べて周りと比べて競い合う、順位をつけたいが、どこが狂人なのか。

 いつの間にか立っている。望んで参加しているわけではない。

 ゴールがない→死はゴールではない。

        病院で死を宣告されたら、喜ばしいゴールとは受け取れない。

・「生死の苦海ほとりなし」 止まることができない。

・今日が終わったら明日、明日が終わったら、明後日。人生をいったん休むことはできない。

・コンパスも海図もなく行く先が見えないけれど、先を歩んでいく人を見て進んでいくしかない。 

 高校一年生の時の現代国語の先生に、学年だよりだかなんか埋めるからお薦めの一冊のレビューを書けと言われて書いた思い出の本。新潮文庫の『侏儒の言葉』。15歳の自分にも忘れられない重みを感じさせられた。大人になって再読するとさらに深い味わいが。是非ご一読を。

 会社に行ったり、買い物いったり、人付き合いしたり…毎日やらなくちゃいけないとおもってやっていることを振り返ると、まあ休めないよなとしみじみ思う。

 働かなくちゃ生きていくためのお金が入らないし、買い物しないとご飯食べられないし、人付き合いもやっておかないとどこかの場で独りになるのはさみしい。周りを見てやっていることばかりだ。たまに投げ出したくなる。

 

【価値と命の交換】

・価値と命(自分の時間)を交換して生きている。

 ex)一時間半の命と、仏法を聞くことを比べた時に、仏法を聞くことに価値があるからこの場に来ている。

・人生80年の命を価値あるものと交換していくが、最後それはなにも残らない。

・わたしの分別の光=物事を価値で見ていく

 →必ず照らすところと照らさないところをつくる。強い光は深い影を作る

 障碍者施設で働く方が、「障碍者が頑張っていることに注目するという価値。価値を価値で上書きしてるというところに違和感があった」とおっしゃっていたというのは、どこまでも我々の生活すべてが価値観で埋め尽くされているということの一端を垣間見たお話だった。

 

【無明のわたし】

・不安がなくならない。誰も理解してくれない孤独。

・私という存在は、無明のまま人生をおわり、また生まれ、無明に生きるということを流転し、繰り返してきた。

・ハイデガー 「退屈は、不安になる。何もすることがないと、死に向かって歩む身であることを考えてしまうから」

・無明は煩悩であり、貪瞋痴である。これは分別心であり、言葉・思考となって24時間わたしにつきまとう

・暗い孤独な心をかけて生きるしかない存在。仏智のない凡智のわたし。

 毎回、無明について必ず触れていただいているが、いつも新たに聞かせていただく不思議がある。いつも新たに気づかされる自分。

 

【言葉】

・言葉が生まれて思考が生まれる。言葉になると、わたし一人のものになる。

・一切平等の世界は、無分別の世界。なので仏智でしか理解できない。凡智の人間にはわからない。

 ここは前回からもちょっとでていたが、言葉にすれば自分だけのものになってしまうというのはブログを書いていてすごく思う。あくまで自分の受け取りでしかないな。

 一切平等の世界を喜ぶのは凡智。それだからか、自分はなんでもありがたいという法話が不思議でたまらない時がある。

 

【光の中心はわたし】

・この光は凡智でははかることができないが、自分から見てすべてが光で満たされるということは、自分が光の中心であるということ。自分一人のための法蔵菩薩の願いであったが、それが照らされるということは、自分だけではなくすべてが照らされる。

 漠然と思ったのだが、諸仏も光を放てば無辺光、無碍光が完成されていくような気がした。

 

【光=名号】

・阿弥陀仏は、わたしに届くようまず法藏菩薩になった。

・法蔵菩薩は必ずわたしを救う願いを立てた。

・わたしの願いは、無明の私の闇を破ってくれること。わたしを必要として呼んでくれること

・法蔵菩薩はわたしの願いを自分の願いとし、名前を呼んでもらうために、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏になった(南無阿弥陀仏という言葉になったため、法性法身を捨てた仏といわれる)。これは、分別の願い(わたし)を無分別の願い(法蔵菩薩)にしたという事。

・法蔵菩薩はわたしの名前を南無阿弥陀仏と呼ぶ。

・法蔵菩薩とわたしがお互いの名前を呼び合う=呼応したのが南無阿弥陀仏

・言葉(分別)でしか言葉の壁(無分別)を越えられないから言葉になった阿弥陀仏。

 ・香樹院徳龍師の話。無明が破れない門徒に、「夜の海にいくように」とおっしゃったが、門徒は意味が分からなかった。14年後に、暗くずっとそこにある海、寄る波が仏の喚び声であったと気が付く。

 一番大事なこの部分。クライマックス。押し寄せる不思議な勢いでお聴聞される方々は引きこまれていったのではないかと思う。わからないとわかるが混在する瞬間。交錯。貫かれる瞬間。この南無阿弥陀仏はわたしひとりのもとに届いていたということ。これでいいのか。開かれる新しい世界。

 

 今回、最後の部分を箇条書きにしたのは、今後講義が進んでいくにつれ振り返ることもあるかと思い、無粋だがこの形式にしてみた。

 それにしても、継続していらっしゃる方が多くて驚く。

 

◆光慶寺正信偈講座(二) 

luhana-enigma.hatenablog.com

◆光慶寺正信偈講座(三) 

luhana-enigma.hatenablog.com

◆光慶寺正信偈講座(四)

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 ◆光慶寺正信偈講座(五) 

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