如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

シネマ法話を見てみた

フォロワーさんから「シネマ法話どう思います?」と聞かれたけど見たことがなかったのと、YouTuberの僧侶の方が出てきたのと合わせてYouTubeで上がってきたので見てみた。この記事を書くにあたり、7人の方の法話を視聴した。YouTube検索して同じ方をのぞいたら、たぶん半分は見ていると思う。

これはお聴聞を定期的にしている自分の感想である。

 

【事前の疑問】

シネマ法話って単語は去年Twitterでちらちらみたけど何のことかわからなかった。

映画を1本見た後の座談???と思ったがそうではなく、映画のあらすじを題材として、仏の教えにつながるものを法話として伝えるということらしい。Googleさんで検索したら、解説があった。以下が疑問。

①あらすじを知らない人にどうやって伝えるのか?

②映画は映像美や演技力も魅力の一つであるのにストーリーだけを利用するのか?

 

【シネマ法話の流れ】

・見たものは20分から25分のもの。

・讃題があり、それに関して映画を一つ紹介する。

 ※ちなみに今回の法話に出てきた映画はすべて自分が見たことない映画だった。

・視聴後に計測したが、すべての法話で6割から7割の時間が映画のストーリーの説明に割かれている。

・最後の7分ほどで讃題に関連した話として結ぶ。

 

【個人の感想】

最初に持った疑問について

①あらすじを知らない人にどうやって伝えるのか?

→法話内で講師が説明していた。

②映画は映像美や演技力も魅力の一つであるのにストーリーだけを利用するのか?

→映像の提示はなく、ストーリーの利用だった。

 

25分未満で映画一本の登場人物とストーリーを理解して、法話としてお聞きするのは難しいと思った。自分はこの解説でテーマとなった映画の本当のストーリーをわかったとは思わない。この時間で映画の本質を伝えるには講師は淀川長治か小森和子並みの能力を持っていなければならないだろう。

ストーリーの解説に関しては、登場人物が少なければまだ耐えられる。4人以上出てきたら正直訳が分からなくなった。そしてストーリー部分を聞けるかどうかは、講師の話術の技量にかかっている。自分はここを乗り越えられるかどうかが関門だった。

いいお話があったのだけれども、そこで気づいてしまったのが、「映画の話なくてもいいお話じゃないか」ということだ。ああ、いいなと思ったお話は、映画の説明の部分もストーリーの説明として楽しめる、そしてその後の讃題の解説のところもお聞きできる。でも映画のたとえがあったから後がよかったわけではないのだ。そこがまったくつながってなかった。

こういう現象がなぜ起きるのか、考えた。映画自体はだいたいが120分でストーリーが完結するようになったもので、その中で感動を呼ぶ部分、人種を超えて心に響く部分というのは現代的ヒューマニズムなのだ。ヒューマニズムというのは、「人間らしさ」としてすべての人が持ち得るもの。聞いている自分は人間として聞いたストーリーの感動したポイントに、急に真宗的な阿弥陀仏のお話が講師の解釈としてかぶせられてくるので、ちょっと、え???となる。もうちょっと時間かけてなじませてほしい。真宗の教えを知っている人だと、ストーリーを聞いている時点で讃題と合わせてそういう風に持っていくのかと予想して聞く面もあるかと思うが…。ちなみに視聴した講師には実際ご法話に行った方もいらっしゃったのだが、その時にはきちんとお聞かせいただいた。映画でお話しされなくてもいいと思う。

また、映画のストーリー、結末、余韻というものは、見て聴いて自分で体験するものであると思う。それをストーリーだけ押し付けられて、「こういうことが感じられますね」といわれている状況で、自分はやっぱりそうかなあ???となってしまう。それはあなたが感じたストーリーで、自分が映画を見てもそう思うかなと感じるのだ。

ここは一度、見た映画のシネマ法話を聞いてみる必要があるかもしれない。

あと、この形態の仏教に関わるお話というのは、すでに自分には体験がある。親鸞会の勉強会である。自分は入会したことがないけれども勉強会には結構参加した。講師でもない普通の会員の方が、科学、生活、映画、漫画、アニメなど多様なジャンルをネタに、勉強会で仏教につながる魅力的なお話をされるのをずっと見てきている。申し訳ないけれども、それに比べたら「シネマ法話」を法話と言い切ってしまうのは、ちょっと苦しい。あくまで身近な例示というのは、きっかけであって、それがメインではないと思う。

なにより、この親鸞会を脱会された方々が、今されている法話でこのような手法を一切取られないのは、そうしない理由があるからではないかと思う。自分はそういう講師の方々のお話を聞いているが、小さな例示があったとしても、ほとんどお聖教の内容を話されているのしか聞いたことがない。

映画のストーリーから法話に繋がることを『見いだす』というのがそもそも分別であって、自分が仏法の生活の中でたまたま出遇った映画で『これだ!』と自分の中で繋がったことを、内面から突き上げる衝動のままにお伝えいただくというならわかるかなあ。中には、ご自分で新しいエンディングを作られていた方もいて、そもそもなんのために映画を題材としなければいけないのか。その必然性がまったくわからなかった。

既存の例えではいけないのかな。自分はあんまり『親様』的な表現を素直に聞けないタイプなのだが、先日聞いた本派の方の七子のたとえは、現代的にきちんと伝えられてとてもいいなと思った。こういう表現ならばいろんな方にも受け入れられるだろうと感じた。工夫というのはそういうところでしたらいいと思う。

祖父と祖母の三回忌で御坊さんがしてくれた法話。二座90分とかでなく、15分から20分のお話だ。祖父の時は自分含め小学生がたくさんいたせいか、蜘蛛の糸の犍陀多のお話。祖母の時は身内の話でお恥ずかしいが母姉妹の冷たい関係性を考えて、今思えば観経の釈尊と提婆達多の話。これは昔からある、仏教的例えだと思う。今ならわかるが、御坊さんは葬儀の時は還相回向の話をしてくれて、年忌法要の時は、その時のうちの家族のことを考えた法話をしてくれていた。その場のみんなに届けという想いでしてくれた法話は、今も家族の中に残っている。難しくなかった。聖教の中にある例えでもいいのではないか。うまく聞かせようと思わなくても聞こえてくるのが法話なのではないだろうか。ネタで相手を惹きつけるのは一瞬、心から伝えたいことに時間を割いて欲しい。

いろんな方への仏教的アプローチという試みはあっていいと思う。映画という話材に関しては、親鸞会の例ではないが、勉強会のような場でお話される際に仏教につながるネタとしてお持ちになるのは十分有効だと思う。自分としては、「法話」として聞くのは苦しかった。苦行だった。