如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

己を破られ続ける話(瓜生崇師)

光慶寺 正信偈講座(七) 瓜生崇師

2020年3月8日(日) 19:30~21:10

この時期、開催を決定していただいたご住職と坊守様には本当に感謝している。

http://m.shinshuhouwa.info/article/index.php?id=44621

本願名号正定業 本願の名号は正定の業なり

至心信楽願為因 至心信楽の願を因とす(第十八願)

成等覚証大涅槃 等覚を成り大涅槃を証することは

必至滅度願成就 必至滅度の願(第十一願)成就なり

 

 一切平等、無分別、真如である阿弥陀仏の浄土を差別、虚妄分別、善悪良悪でしか判断できないわたしは、「私はこの浄土に行きたい」「私は浄土がわかった」といった瞬間に、自分の分別の中に浄土ではないなにかをこしらえているに過ぎない。

 

 そしてそれに気がつきつつも、どうやったら一切平等、無分別、真如の浄土に行けるのかということに、釈迦の亡き後もここに真剣に向き合った人々がいる。その人々が作った歴史が仏教である。その流れの中にいまのわたしたちがいるということは、バウッダを読んだときにもすごく感じた事である。仏教とは何かに触れられたところはすごく自分の中の宗教観と仏教の歴史というものが相見えるような、深いところをのぞき込んだような感覚があった。

 

 浄土への行き方を書いた観経について。

定善=13の浄土をいただく方法 8番目に念仏が出てくる

散善=生き様によって救われる。九品。下下品という最悪の人間が念仏で救われていく。

 善導大師は観経に本気で取り組み、念仏これだけであると気がついた(法然上人、親鸞聖人の読み方)。『観経疏』にでは行住坐臥(いきざま)や時節の久近(近い未来)を問わず、弥陀の名号による正定の業であるという。正しい生き方をしていたらいつか救われるというものではない。念仏する今の救いだ。

 そして救われるのにわたしの側に理由はない。救われるのは法蔵菩薩が願ったから。こちらになにもないのだ。

 

 今回のお話しは、無明を知らされるところから一歩先に行っていた。分別で作り上げている自分から阿弥陀さまへ向けて勝手に作っている何かを破り続けられるのだ。本当にことごとく破り続けられるお話しだった。少なくとも自分は。痛いところでもないんだよな。なんというか、当たり前の自分を、自分の領解というものを聞いて瞬時に分別して作り上げているそばから瓜生師の話で破られていくわけである。プライドが傷つくとかそういうのではなくて、ひやっとくるというかな。あー、ざっくりやられたみたいな。あきれるほど話を聞く側から、自分はそんなことないと分別して安全地帯にいる自分を作り上げる。で、ビリっとやられる。なので、今日はメモを諦めてほとんどなすがままに聞くだけなのだった。今日のお話は、どんだけ破られましたか、あなたはということで、座談をやりたいぐらいだった。ほかの人がどうだったか聞いてみたい。

 「仏さまがいっしょにいてくださる」をありがたくいうのは思い込んでいるだけ。救われた気持ちになっているだけ。ありがたい、うれしいと言い続けるというのは、言い続けていないと不安だから。ありがたさがなくなったらまた寺にきて話を聞く。「ありがたい」というのも分別でしかない。浄土ってこんなところかなと自分で考える。それも結論、わたし独りが作った想像物でしかない。人にはわからないものだ。

 人間は自分がどうにかなると思っているから、理解できる言葉で説明しようとする。瓜生師が、「分別しかない自分がこれは合っている!という教えにであったら、それはおかしいと思って下さい。分別でしかないから。」とおっしゃるのはなるほどなと。

 今日のお話で思ったのは、聞いて破られていく自分のなにかがある。それをずっと純粋に感じる・・・うーん違うな、体験かな、していく中で言外の世界に一瞬貫かれるのではないかな。南無阿弥陀仏に。破られて振り返った瞬間に。足下に届いている。

 

◆光慶寺正信偈講座(六)

luhana-enigma.hatenablog.com

 ◆光慶寺正信偈講座(五)

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 ◆これは一回読んだ方がいい。仏教の長い歴史。

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