如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

二河白道 その一(瓜生崇師)

二河白道 その一 瓜生崇師

2020年4月12日(日) 19:30~21:10

 http://m.shinshuhouwa.info/article/index.php?id=50539 

ここからライブ配信の動画見られます。

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 いつもは正信偈講座だが、今回はYouTubeを見られない方もいるということで続き物でなく5月と合わせて二河白道を二回に分けてとのこと。

 

法話の内容はYouTubeを見てもらえればいいので、自分のメモだけ。

 

・南無阿弥陀仏に出遇うというとはどういうことか

仏教を一回聞いたことはなくならないというのは、自分の実体験からもそう感じる。だから幼いときにお寺に行く、葬儀や法事で法話を聞くというのは大事だなと思う。自分はそういう経験から今こうしているという感じがある。出遇うためにまたここに連れてこられるという感じがする。

 

・信心を得るということ

 →自分はそうなのか。阿弥陀さまに救われるとはどういうことか

宗教の命題。自分はここを知りたいという気持ちが希薄である。なんでかはわからない。顕在意識で希薄なだけであって、潜在意識にあるものなのだろうと思っている。

 

・阿弥陀さまを信じると言い切る=強く自分の理性を信じている

たまにこういう方を見ると心が痛くなる。あなたも救われて下さいといわれると、どうして私自身が救われていないと判断しているのか、それも分別ではないのかと思ってしまう。

 

・還っていくところは本当の世界

今日はここが自分の中で引っかかった。いつもお話しで出てくる喩えなのに、今日は引っかかった。

瓜生師の喩えでは、自分はそういう”帰っていく”場所を求めていない。家、会社など。おそらく新型コロナウィルスの対応で、自分自身の中で様々なことが練られて整理されている気がする。その日々変わりゆく不安な情勢の中で、自分は今ここに”帰っていく”場所を求めていないという感じがする。もちろん、居住する家はある。そういう意味ではなく。もっと心の奥底で。それは求めていないのか、今求めることを諦めているのか、なんなのかわからないけれど、今日はここが引っかかった。

多分、これは自分の問題である。

 

今日のお話は、「信じる」ということが一つのキーワードになっていたと思う。

「信じる」を中心に、なぜ、どうして、なにを、いつ、だれが、だれから・・・ということを考えさせられた。そしてそれが正しいのかどうかにこだわる自分が真ん中にいるということも。

 

◆以前の瓜生師の二河白道①
luhana-enigma.hatenablog.com

 ◆以前の瓜生師の二河白道②

luhana-enigma.hatenablog.com