2020年4月18日(土) 18:30-20:30
瓜生崇師 (真宗大谷派 玄照寺住職)
浄土真宗の法話配信
http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=50594
2時間に渡る今回のお話は、釈尊の生老病死の気付きに始まる。
我々は死の事実から目をそらすことで生きているが、新型コロナウィルスのお陰でそれがいつもよりずっと感じられるようになり、不安を抱いて苦しんでいる。
本当の仏教は生老病死を見つめるもの。苦しくなる。こんなの聞くんじゃなかったとなる。ここは同意。なんでこれを聞くのかと思うときがやはりある。でもやはり聞きに行っちゃうなあ。
今回初の登場、「すみっコぐらし」の映画の話。全然わからない人のために、探してきたキャラクター紹介を貼っておこう。
https://www.san-x.co.jp/sumikko/profile/
後は映画もAmazon prime videoで見られるので貼っておく。
すみっコぐらしのキャラクターは、全員が自分たちの存在意義を求めている。そういう彼らが絵本の主人公(役に立つ、意味のある人物になる)になる・・・という内容。これはYouTubeでどうぞ。なるほどなるほど。
表題について、そもそも信じるとは最も疑っているということ。明らかじゃないから信じる。
この「信じる」を中心にしたら、結局主語が自分になり、何かをつねに「信じる」というループから逃れられない。
南無阿弥陀仏の救いとは何か、それが仏さまの願いだから。そこに「わたし」が入る余地はない。本当の世界から名前を呼んでくれといわれること。
南無阿弥陀仏が聞こえるのが信心。私の想いは入らない。聞即信。
自分が何者かでありたい、誰かの何かの役に立つ存在でありたい。そういう思いは今このときに起こってくる。
一ヶ月前、自分は京都の街中で友人とイタリアンで楽しくランチをしていた。一ヶ月後の今日、新型コロナウィルスへの世界中への影響により完全にテレワーク化。家から出ることもほとんどない。たった一ヶ月。こんなに社会は変わるんだということを知った。いままで持っていた自分は社会から見てこういう人物で、こういうステータスがあってというのが脆いものだというのを実感した。会社で役に立つ。これは今は出来ているかもしれないが、この状況が続いたときに自分の管轄ではわからない。見通しが立たない。こういう先行きかもしれない。ひょっとしたらこうかもしれない。不確かだけど、ちょっとましな方を「信じたい」。
仏教はこういう自分を明らかにしてくれる。そしてそれは苦しいことだけれども、苦しいと思いながら、今があるということだ。「わたし」が入り込む余地のない、本当の世界からのはたらきが今にある。
南無阿弥陀仏
◆聞即信に触れていた過去の瓜生師の法話。