如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

『我と汝・対話』・・・今まで読んでいなかったことを後悔した

 友達が絶賛していて、さらに別の友達が「ブーバー知ってる?」って聞いてきたので、これは読んでみなくてはと思った。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 

 最初に言いたいことを言っておく。宗教に関わる人、興味がある人は是非読んでほしい。自分の感想なんて気にしないで、とにかく読んで欲しい。読めばどうしてそんなことをいうのかわかるだろう。

根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる

根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない

 いきなりなんのことだろうなのだが、これを読み進めていくと、〈なんじ〉の世界が開けてくる。対象とするのではない。関係性なのだ。

『我と汝』の第一部は初めて読むとむずかしいが、一回『我と汝』と『対話』を読み終わった後、再度読むといいと思う。

ブーバーはユダヤ教系宗教学者でユダヤ教を主として書いているので、「神」という表現がでてくるが、どうしてどうして真宗に通じるものを感じざるを得ない。そこはナチュラルな脳内変換で読み進められる。

仏教に関しても知識がある。ユダヤ教、キリスト教、仏教を対比させている部分もあった。

これ以上引用はできない。なぜなら気になったところがほぼ毎ページで付箋で本がふっさふさだからだ。

仏教徒である自分が読んでもどうしようもなく惹きつけられるものがある。きっと様々な宗教のバックグラウンドを持つ人が読んでもそうなんじゃないだろうか。そう思うと、宗教というものの深いところにあるものって、みんな似通っているのではないだろうかということを考えさせられる。

『対話』もいい。

自分は相手と『対話』しているか。〈われーなんじ〉で対話をするということ。この本を読むこと自体が対話なんだ。一行一行に引き込まれる。深く深く入っていくことをイメージした。根源的な関係性。相手ではない。

読み進む喜びは西田幾多郎の『善の研究』以上だった。

 

これは、何度でも読める。そして何度でも気づかせられる。

読み進めるうちに、これはあのことを、ここはあの法話で言っていることではないか。どんどん自分の中で何かがつながっていく。情報量が多くなって前に進めない。流して読んでも感じるものがあるけれど、普通に読むといろいろ考え出してしまう。思考じゃない。気がつくことがとまらない。

それぞれの宗教の、求道の軌跡がこの本の中で蘇るような瞬間があると思う。ああ、あのことはこれであったかと。そんな感じがする本だ。

「言葉」で真如の世界との関係性を語ろうとしている。むずかしいけれど、こんなにいろいろなものを自分の中に沸き立つものを発見できるのかと思う。

 

とにかく、読んで、『我と汝』、『対話』を知って欲しい。

大絶賛。