如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

わたしは生まれたかったのだろうか

『増補版 衆生という存在ー存在の根底から問われ、願われている〈私〉』

 高柳正裕師 響流書房

 高柳先生の本を薦めてくださる友達はすごく多い。響流書房で読む事ができるようになってよかった!

 前半の「底下の凡夫」。自分が凡夫であると言ってしまった時点で自分で底を作ってしまう。自身の無明は底がないはずなのに。自分がそういう聞き方をしている瞬間があるかもしれないとハッとさせられた。自己陶酔の「敗壊の菩薩」。

 高柳先生の求道について幼い頃から遡って少し触れられている。その部分は大きく書かれているわけではないけれど、自分は阿弥陀のはたらきを感じずにはいられなかった。

 

 後半は「他ならぬこの私」と「いのち」について。

 考えさせられたこと二つ。名と光明が一つであり、光明が聞かれることとにより、存在全体において「聞かれる」のであるということ。ここは言葉になった南無阿弥陀仏であるが、それは名であり光明であり、聞かれる存在になった。そこに、私が称えて私が聞くことも加えて考える。光明か!

 もう一つ。

「自の業識」すなわち、自らの意思こそが誕生の因だというのである。 

「無明」の自分の元々が「渇愛」であり、底のない自己実現欲の意思。わたしが大事。わたしのいのちが大事ということがわたしの本来の姿。生きたい。

 わたしは生まれたかったから生まれたのだろうか。すごく考える。自分はどうして自分なのかわからない。小さいとき、どうして自分はこういう姿形をしていて、誰にもわかってもらえなくて、辛いんだろうと12歳まで思っていた。死にたいとというより消えたいと思っていた。今の自分を知る人は驚くかもしれないが、転校した小学校の3年生から5年生まではまあまあ保健室に住んでいた。学校に行かなかったら親ががっかりするから行くけど、その後は保健室にいた。成績がよかったから誰も何も言わなかった。

 大分前に忘れていた感情。どうして自分はこういう存在なんだろう。両親も祖父母も家族は好きだ。でもなんでこの家族なんだろう。ずっとそういうことを考えていた。

 今改めて考えてみると、このなんだかわからない、生きたいとい自らの意思っていうのは自分の気がつかないずっとずっと深いところにあるのかもしれない。永遠の時間を欲する存在。ずっと自分でいたいという欲。大海においての波頭の存在である衆生。

 すごく悩んでたくさん考えた人のお話というのは、なぜこうも惹かれるのだろうか。こういう風にその歩みを表現される人は少ないかもしれない。実際の生活で垣間見る他人の人生の一場面もそうかもしれない。そういうものにもハッとさせられる。表現しないだけで、人それぞれが苦しみを持って生きているという事実。苦しいって言える人はすごいね。自分は自分の苦しみを言えない。ある程度は言えるけど、そこから先は言えない。そういう黒いものをみんなもっていながら生きているんだな。

 本でいろいろ考えさせられた今日。