如是我我聞

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『歎異抄』を読む 第五条(松原大致師)

2020年6月14日(日) 16:00-18:00

松原大致師 (本願寺派 光明寺住職)

 『歎異抄』を読むー第五条ー

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ここの記事、リンク見てと言ってもなかなかなので、松原師にご連絡し、許可を得て全文掲載します。

松原師はハンセン病患者のみなさんのこの願いに合われて布教使になられたのだと思います。願いを掛けられた方です。この第五条のお話を聞けてよかったと思います。

伝えられた自分もこれを誰かに伝えたいと思います。

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念仏者 田端明さんの思い出
 松原大致

 2007年に父親が亡くなったことをきっかけに様々な求道が始まったのですが、そのなかで、父親の法友であった一宮の正瑞寺住職、小笠原恵正師から一本の電話がありました。それは「一緒に長島愛生園に行きませんか?」とのお誘いでした。いま思えば、この一言が大きな導きとなったのです。当時まだ会社勤めと住職を兼職していましたが、平日だったため有給を取って参加しました。そして、真宗大谷派の名古屋教区の僧侶が中心メンバーの、「真宗とハンセン病を考える学習会」にご一緒して、初めて愛生園を訪れたのです。そのなかには、わたしと同郷いなべ市在住の尾畑潤子さん(大谷派 泉稱寺)や田端明さんの里帰りに多大な貢献をされた東野久子さん(本願寺派 善了寺)がおられました。
 最初に訪れたのは万霊山です。ここは納骨堂でした。国立療養所になぜ納骨堂があるのか。そのときすぐには理解できませんでした。遺骨となっても家族・親族との縁を切られたままということが…。「もういいかい 骨になっても まぁだだよ」との入所者の句も、初めてその意味を知りました。
 つぎに訪れたのはハンセン病歴史資料館です。案内役は宇佐美治さんでした。この方は国賠訴訟にも尽力された、頭の切れる方でした。ハンセン病は遺伝ではなく感染症であり、その感染力は非常に弱いものであること、おもに貧困による栄養不足や衛生状態の悪い状況で発症すること、しかし、現在は国内ではほとんど発症者がいないこと、また、治療法が確立されていて必ず治る病気であること、いま入所している方々はみな元患者・回復者であることを知りました。しかし、末梢神経に後遺症が残りやすく、それが見た目に影響を及ぼすため差別に遭ってきた歴史があること、それを背景として、日本ではハンセン病患者に対して、本来不要な人権侵害である隔離政策で対処してきたこと、その隔離政策を推進したのは長島愛生園の園長であったM氏であったこと、などを学びました。
 つぎに、真宗同朋会館にて、元患者・回復者の方からお話をお聞きしました。そのお一人が、当時88歳の田端明さんでした。その体験談では、凄まじい差別と抑圧に遭い、いまもそれが続いている事実を次々と聞かされて愕然としました。親族の縁を絶たれ、社会から隔離され、人権を踏みにじられてきた怒りと悲しみの涙を拝聴して、こちらは言葉を失いました。そしてまた、真宗の信心体験を語ってくださるところでは、歎異抄第五条とのであいと葛藤、それが氷解してゆく歓びもお話しくださいました。
 そのあとの座談会で感想を求められたときのことはよく覚えています。「仏教を含めて、今までわたしが学んできたことは、いったい何だったんだろう…」と思わず口走ったのでした。
 座談会の後は一緒に食事をとる懇親会となりました。そこでまた、信じられないお話を聞いたのでした。それはある入所者さんからの「M園長のお陰で、地元での差別から離れて暮らすことができた。」との発言です。それまでも、小笠原師から、真宗各派すべてが差別を容認してきたこと、また、その差別を利用した法話まで行われてきた事実までも知り、十分ショックでしたけれども、この入所者さんの発言はまたそれに輪をかけてショックでした。構造的な差別の根深さを目の当たりにして、ただただ悄然とするのみでした。もちろん、入所者の多くは隔離政策には反対のお立場であったことは追記しておきます。
 そして、そこで田端さんをはじめ、多くの入所者さんから言われたことが大きく胸に響いたのです。「あんた真宗の坊さんやろ。それなら法話をするやろう。だったらそのなかで、ハンセン病で隔離され、差別され、怒りと悲しみに涙してきた人がたくさんいることを一人でも多くの人に伝えて欲しい。」非常に重大な課題を託されたのです。
 ところで、本願寺派には布教使制度があります。別院や本山で話すことのできる資格が布教使です。わたしはそれまでも、他派等のお寺で何座かの法話はするものの、布教使を志そうとは思いませんでした。その必要を感じなかったからです。しかし、一人でも多くの人にこの事実を伝えるためには、資格を取るほうがいいかもしれない―それが、後にわたしが布教使となる一つの大きな後押しになったのでした。
 そこで今回ご縁を得て、しかも歎異抄第五条に関する話をせよ、とのご依頼があったわけです。これは田端さんの話をする時機がついに純熟したと直観したのでした。
 歎異抄第五条は、教義上は不廻向の念仏を説く条ですが、意味を広く捉えてゆけば華厳経に説かれるような重々無尽の生命観であり、平たく言えば“いのちの歴史”を明かしています。その広大無辺な意に触れるには、表面上の意味がわかるだけでは不可能です。身もだえするような求道が必要なのでありましょう。高史明師もそのお一人です。田端さんはこの歎異抄第五条に引っかかり、体当たりし、挫折し、また体当たりすることをし続けました。ずいぶん長い間苦しまれたようです。
 法話のなかでも触れましたが、わたしは何回も愛生園へ通い、田端さんとお会いする度にあることに気付きました。それは、田端さんが「一切の有情は世々生々の父母・兄弟なり」の箇所を、いつも「一切の有情は世々生々の〈いのち〉なり」と表現していることでした。最初は失礼ながら、間違えて覚えているのだと思いました。しかし、そうではなかったのです。田端さんは、歎異抄第五条の点字を舌で何度も何度も読み、身読を重ねてきました。そして、そこからついに、「一切の有情は世々生々の〈いのち〉なり」という独自の領解が生まれたのでした。親鸞聖人が大切なところでは「親鸞におきては」と仰せのように、田端さんにとっては、そう読まねばならなかったのです。この度のお取次では、このことひとつをどうしてもお伝えしたかったのでした。
 有限相対のいのちではない。無限の〈いのち〉、無量寿がわたしを貫いていたではないか。田端さんは歎異抄第五条を通して、わたしに対してそう仰せだったのです。世間的に見れば、あらゆる関係性を絶たれたのが田端さんの人生でした。もちろん、その差別を容認することや、安易に積極的な意味付けをすることは許されません。しかし、そのなかにあって、あらゆる関係性が開かれてゆく真実信心の道を歩まれたのが、念仏者としての田端明さんでした。
 田端さんはご法義談義のときもよく笑い、冗談まで飛び出すひょうきんなお人柄でした。トレードマークであった高声念仏とともに、“いのち”を強めの語気で表現された田端さんのお声が、いまも思い出されてなりません。

田端明さんプロフィール
1919年三重県津市に生まれる。1939年、ハンセン病を発病。1940年、ハンセン病国立療養所長島愛生園入所。1945年、失明。1959年、結婚。1999年、60年振りに一時帰郷。その間、盲人会会長、真宗同朋会世話人などを歴任。2017年12月4日98歳にて往生の素懐を遂げる。

参考記事
https://www.asahi.com/articles/ASJD22V1HJD2UBQU007.html
写真左の女性が尾畑潤子さん

◆松原師の『歎異抄』第二条

luhana-enigma.hatenablog.com

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