『龍樹から親鸞へ: 伝道研修会講義録』 仲野良俊著 響流書房
七高僧の上三祖(龍樹、天親、曇鸞)を中心に、親鸞聖人に至る流れの講義録。
自分は七高僧に焦点を当てた本を読んだことがなかったので、この思想の流れを当時の状況も会わせて整理して解説してあるのはとても興味深く読むことができた。
外道が長生不死を求めるのに対し、仏法は厭穢欣浄であることを押さえた上で、龍樹の易行品がどういうものかを解説していく。
解説の中にも、我々の生活の中で感じている例示を元にされているので、「それは昔のことでしょう」といった遠いことの話に聞こえることがない。今の我々に聞かせていただくお話だ。
最近、宗教心と言うことと、社会問題の関わりのがことについて考えることがあった。COVID-19の件もあり、なんだか「こういう念仏者になりましょう」とか、「仏教を求める人はこういう風に考えるはずだ」的なお話を目にすることもまり、もやもやしていた。元々自分は社会問題と宗教は直結して考えられない性分なのだ。そう思っていたら、この一文が目に飛び込んできた。
理性の場合は自分以外を問題にするのです。社会が悪い、教育が悪い、教師が悪い、他を問題にします。宗教感覚は違います。自分を問題にするのです。一番困った奴は自分だと。(中略) 理性は教えることができますが、感覚は教えるわけにはいかないのです。
幸はどうでもよい、真実に生きていきたい。この根性です。この根性を仏教精神と言うんです。その証拠に袈裟を掛けているんでしょう。袈裟を掛けているということは、幸せなんかはどうでもよいことということです。
これは僧侶の方向けの講義だったので、このような呼びかけがこれ以外にもたくさんあった。強い言葉にハッとさせられた。
七高僧の流れなのだけれども、そこに仏法を求めることの厳しさと真宗が正法であるという著者の論の主軸とが混ざり合い、読み応えのある内容だ。
仏教は自分の生活の上で、教えられたことが解けていることが大事。理屈ではない、頭で解ることではない。生活が解けること。
ああ、自分は今そうなっているだろうか。
自分メモ。清沢満之の三部経は阿含経、歎異抄、エピクテタス。
◆仲野良俊師の本のブックレビュー