如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

如来の作願をたづぬれば(宮田秀成師)

2020年6月27日(土) 15時~16時半

「にしのみや聞法会」 宮田秀成師

http://shinshuhouwa.info/article/index.php?id=51050

正像末和讃より

如来の作願をたづぬれば

  苦悩の有情をすてずして

  回向を首としたまいて

  大悲心をば成就せり

 予定が合わなかったり、コロナが来たりで本当に久しぶりの宮田師のお話だ。

「聞というのは、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」

 自分が特にお聞きしたいテーマズバリだった。

「苦悩の有情」は自力で出離できない身。自分の死を解ることはできないので理解ができない「わたし」だけれど、仏の眼から見たら、ゴールのない生である。生きて死んで生きて死んでも終わりのない生死流転の中にいる身。

 

信=本願を信じる 行=念仏する 信行二つあって往生する。

よくいう「私からする自力ではなくて、如来からいただく他力」っていう、まあそうかなっていう理解から一歩踏み込んで、本願を信じること、念仏すること、浄土に往生することもすべて、本願力による。「わたし」というものは、本願力に包括されているのだという。はたらきの中にいる「わたし」。本願力とは、本願の通りにする力。真宗はこれなのだ。すべては我が身に回向されている。

 

そして「疑心がないとわかる」というのはどういうことか。これは質疑応答ででたお話だったとおもう。「南無阿弥陀仏にあれこれ言う必要がない。そのとおりですね。となることですね。」宮田師の言葉って、すごくきっぱりしている。

とても不思議なのだが、こういうお話をされていたら、明らかに「覚った人」としての教えてあげる感じというか、上から目線な感じが漂ってくるのだが(いろいろ経験済み)、宮田師には全然ない。それがわからない。一ついえるのは、絶対に同じ目線で話をしてくれているという感じがある。それでもわからんっていう感じがある質問者たちに対しての、次は何ですか?っていう促しは、宮田師が回答したことを一度自分で噛みしめてっていうことかなと思う。

こういう質問は、「先生質問です!信心いただいたってわかりますか?」「それは●●が××したときにわかるよ!」「そうですか!わかりました!!」って話じゃない。でも、宮田師は極力わかりやすい喩えで答えてくれる。ああ、わからないけどなんか近くに来た気がする。でも、もうちょっとそうだって握りたい!という手前で自分の中に問うことを置かれるような気がする。

まったく煙に巻くような話じゃなくて、理路整然と導いてくれているのに、答えはこうですっていってもらってるようなものなのに、自分の中に問うことが出てくる。というお話だと思う。

自分はどうだろうか。自分はどうだろうか。

如来の作願をたづぬれば ゴールのない流転の「わたし」がいる。

そんな流転に気がつきもせず、そこから出たいとも思わない「わたし」がいる。

わからないけど聞きに来ている「わたし」がいる。

帰りの電車で考える。

 

◆宮田師の過去の法話

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◆宮田師の著書

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