『新しい親鸞』 上下巻 武田定光 響流書房
「新しい」っていう言葉は、仏教において使う時に、ちょっと微妙な感じがする。ずっと紡がれてきた教えといわれるものから外れる「新しさ」ということをイメージするからだ。本の冒頭でその懸念については触れられていた。
親鸞の言語世界の中を目的地にするのではなく、それをスタート地点として親鸞に出遇っていくということを「新しい」としている。
上巻では、は宗教においても、「それがほんとうの宗教かどうかは自分で確かめるしかない」という観点に立っており、自分で確かめていくことに重きを置いている。
また、身こそが他力で「起こる」ものであるという視点が自分の中では聞法を続けることの理由に感じた。
今まで読んだ本にも出てきた「体験」についても、どのようにとらえるべきかというのがあり、時代に合った感じの内容なのかもしれない。
わたしは仏教を、ひと言でいえば、自分をそのまま受け入れることができる装置であると考えている。
いわんとするところはわかるけど、そこに至るのはなかなか難しい。
最期の永遠の批判原理としての他力は一読の価値あり。
下巻
歎異抄から唯円、無、煩悩、生きる意味、死、時間などの真宗の重要なテーマを取り上げている。それに対して、現代の「わたし」が向き合う。
この態度は本の間徹底されている。自分は正直ちょっと読みにくいと思った。仏教書っぽくなく、いつもの読む本の展開と違う感じで、ところどころの解釈において、全然違うとは思わないけれど、そうなのかな?というところはいくつかあった。
どちらかというと、仏教初めてなんですという人向けではない。
大乗仏教はその時代その時代の人が読み解き、考え紡いでいくものだ。この本もその途上にあるものなのかもしれない。