如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

本願海流(瓜生崇師)

2020年9月18日(金) 19:30~21:15

同朋学習会 慶運山 長源寺 無量寿経 (3) 瓜生崇師

shinshuhouwa.info

 またまたお聴聞友達に便乗させてもらう。

無量寿経講座は3回目ということで、菩薩の描写に入った。菩薩の描写はまるで釈尊の一生のよう。梵天勧請のところまで。

 

家に帰ってから調べた。親鸞聖人が『教行信証』に引いておられる道綽禅師『安楽集』より。「連続無窮」。

前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。

瓜生師のお話の要旨をまず。YouTubeの投稿の時には書かないからなんか久しぶりでいいなあ。

普賢の徳を持った菩薩は釈尊と同じような生い立ちをもつ(鏡のようだ)。そしてやがて「無我」の覚りを得る。言葉で表すことができない真理は誰にもわからないからと、そのまま涅槃に行こうとする菩薩に、梵天・帝釈天が、「すべてのもののために説法をしてください」と頼む。そこで菩薩は気がつく。自分の覚りが誰にもわからないと思ったら、わかるものとわからないものを作ってしまうことになる。自分だけが覚ったとしてもそれは本当の救いにはならない。宇宙全体を目覚めさせなければ、本当の目覚めではない(我は一切なり)。自分の覚りを棄てる。そして説法をはじめる。

この菩薩に説法を願ったのは、この「わたし」である。このわたしが菩薩を、釈尊を目覚めさせた。そしてその教えはたくさんの人たち、大乗の教えに苦しみながら向き合ってきた人々(凡夫)が、釈尊の覚りから深耕し考え続けて、今ここにいる「わたし」にまでつながり届いた。

大峯顯師は、これを「海流」と呼んだ。2500年前の釈尊を目覚ました「わたし」の「ほんとうのことを知りたい」という願い。それは海流のようにどんどんいろんな人と混じりつながり、溶け合い、しながらまた今ここの「わたし」にまた戻ってくる。

仏のいない時代において、われわれすべての衆生が救われていくことを考えた人たち。そして時間と空間を超えてそれはつながり、自分だけの覚りからこちら側へまたやってきた釈尊は真実の世界から来た如来となった。また、言葉でしか理解をすることができないわれわれのために、真理は本当の姿を棄てて南無阿弥陀仏という言葉になって現われたのだ。大乗仏教の核。

 

ここから感想。

「難しい話を聞いちゃったな」

と瓜生師が言った。聞いている人たちにいうなら、「難しい話をしていますよ」だけでいい。そこは話しながら一緒に聞いているってことなんだろうな。わからないけど、話しているという。

自分も大乗の流れの中に、海流の中にいる。このお話は何回か聞いているけれども、聞くたびに「そうだ自分も中にいるんだ」ということにハッとする。最初のころ、瓜生師の法話を聞いたときに、放り投げられたようにわからなくなったのは、こういう視座に急に連れて行かれたからかもと近頃は思っている。

なんとなく、お話を聞きに来ている。聞かないと死んでしまいそうとか、回数を求めてるとかいうのは正直ない。でも行こうかなって思ったら予定がけっこう上手くやりくりできちゃって。最近思うのだが、表層的な自分の意識=自我としてのわたし以上に、本来一切平等である物質というかなんというか、ほっといても動いている心臓、吸って吐いてる呼吸、歩いて、寝て、食べてしてる自分の身というものが言葉から伝わってハッとしたくて行ってるのではないか。宇宙の一部だからだとか。

なんで聞きに行ってるか明確な自覚がないけれど、それはまあそれでいいのではないかと思っている。でもきっとなんかあるんだよな。

釈尊の教えを苦しみながら求めて深掘りしていく覚ってない人たち。自分もそう。たぶんそう。そんな中で、言葉っていう伝わらないものを通して真如の南無阿弥陀仏が現われてそれを聞いている、称えるわたしたち、凡夫。

連続無窮。

永遠に修行する法蔵菩薩がいて、とっくに阿弥陀仏になられて、この身は宇宙で満ち足りているまんまで、自分が苦しいのも変わりはなくて、それでも南無阿弥陀仏は届いている。今。法蔵菩薩が目覚める。

わたし一人のために。それはわたしの世界が独りぼっちだから。これはわたしという誰にも分かってもらえない視点から見たものに過ぎない。わたしが語る時。でも開かれた世界で外とつながる。ハッとする。

そしてまた、元に戻るんだなあ。でも自分は気がついたら掘っているのだと思う。ハッとした時にああ、ここを掘らなくてはと、自分の中を掘っているんだと思う。自分を掘っている様で、違うものを掘っているのかもしれない。他の凡夫と共になのかもしれない。

 

 

無量寿経の話は、何回聞いてもいい。何回聞いてもわからないけど、ハッとして、また忘れる。また聞いてハッとする。自分はそういうものでしかないんだろう。

 

◆以前聞いた 無量寿経の話

luhana-enigma.hatenablog.com