2020年11月26日(木) 19:30~21:05
本光寺 歎異抄を読む(3) 瓜生崇師
なんか第一回に行って、この間も第二回にいけてしまったら、第三回もいけてしまった。
歎異抄第一条、まだまだ続く。なんといっても「弥陀の誓願」の五文字が終わらない。これが終わったら、もう歎異抄を説明し終わったも同然なのだ。
誓願は菩薩が行うこと。あなたを必ず救うという約束。
法蔵菩薩: 法=ダルマ。真実。
藏=アーカラ。源泉。鉱脈。
本当のことが知りたいと、掘り進んでいった源。真理。の菩薩。
・梵天勧請:お釈迦様に覚りを話してくれと願う。
=そしてこれは、2,500年前のお釈迦様を目覚ましている「わたし」
・お釈迦様:梵天=「わたし」に願いを掛けられる。
仏法を説いていこう。すべてのものが目覚めていく世界に。
・法蔵菩薩:国王であるときは、自分の願いが叶わないことがない極まった姿。
菩薩になり、世自在王仏の様になりたいと願う。
迷いの世界において人を目覚めさせるという願いは
「わたし」に名前を呼んでくれと願う。
・林暁宇師:赤禰貞子さんに願いを掛けられる。
・宮田公子師:九州での師に願いを掛けられる。
・瓜生師:宮田公子師に願いを掛けられる。
「願い」。今日はここから感想だけで行ってしまおう。
いろんな願いがある。すべてのスタートには「願い」があると今日のお話で思った。自分の願いは何だろうか。どうしても自分が「なにかいいものになる」ことしか願わないな。他人への願いだって、子供に対して「幸せになって欲しい」と願うことも、自分がそうなってくれると幸せだから。結果として自分の為というところがまったくないとは言い切れないのが人間の「願い」だと思う。でもそんな願いでも、お互いの考えていることを100%わかりあえることなんてない人間だけれど、なんか通じるところがあると思って、信じて、「願い」を掛け合っている。願い、願われる関係の中でわたしたちは生きていて、仏教の教えもまた、願い願われることでつながってきた。願う、願われるは能、所の関係にある。動作の主体と受け手。でもそう思っているのはわたしたちだけなのかもしれない。
これもすべて縁起でなくてはならない関係性。願っていると思っている主体である「わたし」なんてどこにもいなくて、願われているものだってない。でもそれがなければ成立しない世界。言葉でわからない世界があるのかもしれない。
阿弥陀さまの願いは大きすぎてわからない。でも人間のわたしにわかるように「願い」という形、南無阿弥陀仏となって現われている。同じはたらきをしてくれ、同じ願いの中に生きてくれと呼ばれる。そしてお釈迦様を目覚まし、阿難を起たせたのも「わたし」の願い。本当のことを知りたいという願い。願いは「わたし」に還ってきた。
心の中で、なにかを願わない人なんていない気がする。崇高なものだけが願いではない。ああしたい、こうしたい、心の中でうるさく叫んでいる自分。それだって願いだろう。その中に飛び込んでくる南無阿弥陀仏の願い。お話を聞いているときに突然やってくる瞬間。
帰りにずっと「願い」について考えていた。
◆本光寺 歎異抄を読む(1)
◆本光寺 歎異抄を読む(2)