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『歎異抄』を読む 第四条 その二(瓜生崇師)

2020年11月30日(月) 19:30-21:00

瓜生崇師 (真宗大谷派 玄照寺住職)

真宗ねこねこ法話会

『歎異抄』を読むー第四条 その二ー

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 慈悲から入ると、自分に他者を救う智慧などないということに気がついていく。

 智慧を得ると、他のものも救われなければいけないということに気がついていく。

 

 法話は動画を見てもらうとして、今回自分が聞きながら広がったことを書く。

 慈悲に関わる件で、近頃二つのことがあった。

 ひとつは、「自分が他人を救いたいという気持ちに疑いがないと言う人」もう一つは、「人は善をせずにはいられないというような話」

 前者について。そういう思いがあるのは尊いことだ。ただ疑問だったのは、「相手がどう救われたいかわかるのか」というところ。今日の法話でも瓜生師が触れていたが、本当の悩みなんて他人に打ち明けることなんてない。自分の奥底から1ミリも動かずにあり続けるもの。それを聞かずして、人を「救える」と思えるのはなんでなんだろう。そして他人を救いたいという気持ちの純粋性に疑いがないのはなんでなんだろう。そして相手を「救った」とわかるとうれしいというのは、どういうところでわかるのだろう…。と思うといかに自分が冷たい生き物なのかと気がつく。そういう人もいるかもしれないじゃないか。

 後者について。めちゃくちゃ感動する話を聞いた。人は選択を迫られたとき、善を行うというもの。自己犠牲もの。そうかなあ。それは理想だけれども、なにをしでかすかわからない自分というのがあるのじゃないかと思う。そういう善の行いが”.ありがたい”だけ、そのままでいただくことができないと感じる。自分が気になったところは、感動のストーリーの中心部分じゃないからスルーすべきなのかもしれないが、できない。

 今回書いたエピソードについて、相手含め、他の人とも話した。

 結果思ったのは、それぞれが自分の世界において正しいと信じていることで塗り固めていて、意外と自分が信頼できていて様々なことがなんとかなると感じているということ。それですら自分の分別だけれども。

 今日も「空」について触れられていた。この切り口、宇宙である自分とまわりを構成している世界についての気付きがすごい。すべてのことがお互いに依り合って成立しているということが、いまここの「わたし」について不思議な感覚で迫っていく感じがする。

 「わたし」はどこにいるのかというのをたどってたどって行っても確固としたこれだというものがない。今までの経験でわたしの心が作られている。今であっているもので変わるわたし。

 時剋の極促に南無阿弥陀仏に貫かれる。それを感知してこう変わったわたしを言えない。でも貫かれる。話を聞いてるにつれて自分の中を探すこととわたしが今ここにいてたしかに外の世界があることが同時に広がっていっていく。

 新しい視点そのものが驚きに満ちあふれている。ここをもっと深く聞きたい!

 

◆瓜生さんの歎異抄シリーズ

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