如是我我聞

仏教書、哲学書、お聴聞の記録をつけています。

溶け合う世界(浄土真宗Live! 瓜生崇師)

2020年12月2日(水) 20:00~22:00

「溶け合う世界」 瓜生 崇 師

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 「わたし」という存在意義を探す。生きがい。意義を求めるとそれは必ず死ぬときに失っていくものだ。誰ともつながることができない。根源的にわかり合うことができない。前半部分を聞いていて、なぜかとても寂しい、かなしい、虚しい気持ちが込み上げてきた。どうしたんだろう。どうしようもない感覚。

 ”言葉にした瞬間にいんちきになる”「わたし」の世界。

 どんなに話を聞いても、自分がなんなのかわからない。いつも思うのが、自分の身を削って削って、最後に残るのは何だろうということ。「わたし」の芯のようなものが見つけられない。そんなことを考え、思い巡らせている自分は何だ。これもまた、本を読んだりお話を聞いたりして、自分の中の物語を作り上げているだけではないか。

 この日はそういう思いが高まっていたのかもしれない。

 

 自分は救いがなんなのかわからない。そして自分が明確に救いが欲しくて、救われたくてお話をきいているとは思っていない。なんかわからないけど、聞きに行ってしまう。自分の中でその説明を自分にしてる「こと」はある。人にはいえない「こと」がある。本当の自分を見つめたときにあるもの。でもそれは誰にも言っていないから、それを理由にするのは自分に決定権があるんだと思っていた。

 瓜生師の宗教遍歴の告白の冒頭部分、もう一回聞いたときに思った。自分はこういう風に自分を語ることができないけれども、このような姿が眼前に現われたときに、自らもそうしたいと思うのかもしれない。自分の中のどこかに「あなたのようになりたい」という気持ちがあるのかもしれない。瓜生師の話しはご自身の中のすべてではないと思う。でも少なくとも自分よりはそのままを話されていると思う。自分はできない。でもそうしたいというものがどこかにあるんだろう。それが出来なくて、誰にも伝えられなくて、「わたし」がこうだって伝えられなくて苦しいのかもしれない。独生独死。自分で決められない、はっきりできないことがある。

 

”無我、我は一切である、みんなが目覚めていくことが救いなんだ。

救われる人、救う人の境界がなくなる、

私の本当の願いはわからないくらい深いところにある。”

 

 この哀しいような虚しいような気持ちはどこから来るかわからないけど、ずっとずっと底ですべてのものとつながっている気もする。そう自分が思っているだけかもしれないけれど。

 自分は凡夫。でも誰かと念じあって溶け合うことが出来る。仏と同じはたらきをする。全然そんなたいしたものの気がしない。阿難が見た仏仏相念。「わたし」の南無阿弥陀仏で救われつつある「わたし」と法蔵菩薩。自分は必要とされている。自分に決定権がないんだ。

 こうやって聞いているときに、その場にいる人と、溶け合う一瞬、時剋の極促があるんだと。それは、言葉にしたら、インチキになる。インチキになる。インチキになるからいわないんだ。それでも話さずにいられなくて、聞かずにいられない。溶け合う。

 

 浄土真宗LIVE!にしては大延長の2時間だったけれど、まったく長いと思わなかった。無量寿経をベースにしたお経の話で難しい言葉もないので、初めて法話を聞く人にも伝わるものがあると思う。

 

◆浄土真宗LIVE!


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