雑感。
たまに目にする『倶会一処』。自分はそれが、「懐かしい人に会える」ということを大々的にアピールしているのを見るともやもやする。例えば、それを僧侶が口にしたときに、仏教を知らない人からしてみると「みんな死んだら極楽浄土に行って会いたい人にも会えるんだ」という感じで聞いてしまうし、見ているとそういう捉え方の人が多い気がする。
小学生の時に、祖父が死んだ。そのときに近所のじいちゃんたちは、「次俺行ったらまっとってくれっかのぉ」というような話をしていた。
仏壇に参りに来ていた御坊さんに聞いたことがある。というか、伯母がずけずけ聞いていたんだけど。
「死んだら、お父さんに会えるってことなんですかね。」
「なん、仏さんになっとるからわからんかもしれんちゃ。わしもいってみんとね。」
と笑っていた。その話を聞いたときに、なんとなく、死んだらそのままの自分っていなくなる気がした。今ここにいるそのままの自分。死んでも消えないけど、そのままじゃないんだなと理解した。家族全員死んだからといって、またここと同じように家族として一緒にいられるんじゃないんだと小学生の自分は思った。
そういう土壌があって、また瓜生師の法話で「懐かしい人にだけ会えるところがお浄土じゃない。懐かしい人に会えると言う時点でこの人には会いたいけどこの人は嫌だという分別の世界じゃないか」というところに深くうなずいた。
自分でうだうだ考えていてもあれなので、聖典セミナー『阿弥陀経』瓜生津隆真著 を調べてみた。
舎利弗よ、このような極楽世界のことをきいたなら、ぜひともその国に生まれたいと願うがよい。なぜかというと、その国におられるすぐれた善人たちとともに、同じところに集うことができるからである。舎利弗よ、わずかばかりの善根功徳によっては、とてもその国に生まれることはできない。
同じところで集えるのは「浄土の聖者たち」、一生補処の菩薩たちを指す。
高田入道あての手紙に、覚念房(?)の往生を知り、「かならず一つところへまいりあふべく候ふ」と記されているが、これは同じ教えを聞いていて、同じ信心をいただいているもの同士だから通じる言葉じゃないかなと感じる。阿弥陀仏の浄土に行くというところにフォーカスが行っていて、同じところにいくから会えるにフォーカスが行ってるんじゃないと思うんだな。いずれ同じ真如の世界で彼我わからず一切平等の世界に行く。そういうことなんじゃないだろうか。
で、Googleで調べていたら、本願寺派の解説もあった。
https://www.hongwanji.or.jp/mioshie/story/000770.html
同じ阿弥陀さまのはたらきによるからこそ、同じ倶会一処のお浄土で、また懐かしい方々とも仏と仏としてのお出会いをさせていただき、仏としての活動に加わらせていただくのです。
「仏と仏としての再会」となっている。なるほど。
でもなあ。なんかこう、お話を聞いているときに、聞き手がミスリードというか、勘違いするような内容に聞こえることがあるんだよなあ。
「死んだら会える世界」を葬儀でや法要でお話しされたら、そうなのかと興味を持たれる方もたしかにいると思う。でも、その勘違いから発した興味を本来の真宗の旨に目を向けてもらうのって、これまたかなりの難儀ではないのだろうか。そういう興味喚起っていいのかな。なんか自分は不誠実な気がする。
「懐かしい人に会う」のでなくて、「一切衆生すべてが救われていく広い世界」にであえる仏教をすごく狭く伝えている様な気がして成らない。そしてそれは「懐かしい人に会いたい」と思ってお寺に来ている人の世界も小さく閉じ込めてしまっているんじゃないだろうか。
これは自分のなかのモヤモヤ。