如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

『求道物語 仏敵』 信心獲得とは

 

 

 非常に表現が難しい本。宗教独特なものへの嫌悪感というか拒否感とそれを境地として嬉嬉として表現されることへの羨望とそういうことがあってもいいという肯定感。もうむちゃくちゃな感情の中でこの本を読んだ。

 自分は特に信心がどうとかいうことが問題になっていないというか、そこに関心があまりない。そこにすごく集中している人のことがわからなくて読んだと言ってもいいかもしれない。たぶん自分が仏教に求めていることはもっとぼんやりしているのだろう。自分でもわからないくらい。

 なのでここで熱い涙を流し、叫び、お互いに信心獲得を喜び合う村の人々。これが100年ほど前の真宗の姿なのかと驚く。ぶっちゃけとまどう。

 これをみると信心獲得した人には通底する何かがあるということで、その表出は人によるということではあるが、何分アクションが大きすぎる気がする。

 

 ただ読んでみて思ったのは、やっぱり仏教は、真宗は「宗教」だということ。なんていうのだろう。最近、わかりやすいとか、親しみやすいとか、開かれたとか、結構キャッチーな感じで仏教を語ろうとされる人が多いんだけど、自分はそれってちょっと違うんじゃないかなと思っている。やっぱり宗教だと思う。というのも、自分の親戚に仏教聞いてると言ったら、否定はされないけどちょっと変な顔をされる。親が死んでないのに?それ大丈夫なやつ?みたいな。もう京都にある東西本願寺っていっても通用しない人たちも増えてきたのかもな。伝統仏教であったとしても。そういう感覚の人が多いんだと思う。ここ数年仏教を聞いてきた自分もちょっと変な人ぐらいに認識されているのではないかな。クリスチャンより葬儀法要以外の信仰する宗教として認知度は微妙かもしれない。

 そういう宗教の「ヤバさ」を元々は含んでいるというのをこの本を読んで知るというのも必要かもしれない。そんな無味乾燥なよりよく楽しい生き方指南みたいなもんじゃないものがあるんだと。

 読んだ感想に戻ると、この本の中身は極端かもしれないが、真剣に求める人たちの姿(その動機がもっと知りたかった)、喜ぶ姿(これはわかるようでわからないのだろうが、そういう境地はうらやましくもある)、暗いものは晴れるが黒いものは一生なくならない(これもちょっとわかる気がする)、信心獲得の体験(どうしてもどうしてそれが獲得だと言い切れるのかわからない。わかるものじゃないと言われたらそうなんだけど)を目の当たりにしてなんとも心の中がうるさくてたまらない状態で読み切った。

 いやはや、熱かった。