如是我我聞

仏教書、お聴聞の記録をつけています。

『教誨師』 死を目前にした人に語ること

『教誨師』堀川惠子 講談社文庫

 ジャケ買い。全然中身知らなくて、タイトルで買った。

 教誨師とは、死刑囚が最期の時を迎えるまでに、必要であれば面談し、宗教的な面でのサポートをする宗教者。いろんな宗教、宗派の方がいるらしい。こういうのって、やっぱり人間には宗教が必要だからなのかな。自分は全然知らなかった。大杉漣の映画でちらっと聞いたぐらいか。

 

 一気に読んでしまった。

 教誨師は浄土真宗本願寺の僧侶。真宗の雰囲気が色濃くただよう。著者はノンフィクションの作家さんだし、門徒の方でもないのだが取材し的確に表現するとこういう雰囲気も伝わるものなのだと驚いた。一部どうかなと思うことがないでもなかったけど、これは宗教者の書いた本ではないのだ。

 主人公というべき渡邉師は広島で被爆し、なんとか生きながらえてその後東京の寺に婿に入る。篠田師に導かれ教誨師の道へと足を踏み入れる。

 

 いま生きている人間は、間違いなく死ぬ。それは誰も変わらない。でも死刑囚は、病気や身体の寿命において死ぬより先に、他人に死刑執行の時を決められて死ぬことがわかっている。そしてその理由は、社会的に許されない犯罪を犯して、社会によって死刑を確定されたからなのだ。

 渡邉師と死刑囚たちの会話。普通なんだ。死刑囚だからと言って特別ななにかがあるわけではない。人間だ。そのことを改めて確認してしまう。

 教誨によってお経を読むようになったり、本を読むようになったり、字を書く練習をしたり。そういう時間をすごしていく。

 やがてやってくる「その瞬間」。自分もこの本を読みながら死刑囚を知ってきたのだ。人間としてのひとりひとりを。そして「その瞬間」を迎える。死の直前の人間とは。この世の誰もが死んだ後がわからない。でも、その直前までを目の当たりにする人がいる。医師や看護師の方は職業上、病から死に至る人をみていくだろう。でもこの死刑執行の場面は如何だろう。渡邉師はみんなで「人殺し」をしていると表現をする。そしてその死の瞬間を見守る。職業上。

 

 二つのことを思った。

 死を突きつけられた人間にとっての「救い」とはなにか。渡邉氏は宗教にはできない。できるのは人間が人間として向き合うだけ。多分そこからでないとなにも起こらないのだろう。いくら教義を振りかざしたとしても。

 死刑制度って必要なのだろうか。お恥ずかしながらこの件についてはまったく知識がない。でも考えたいと思った。この国に生きる人間としてどうしたらいいのかを自分が考えようと思った。

 

 自分は「わたしは誰かこころの支えになるためになにかがしたいです」「誰にでもなんでも相談にのります」という感じの人が苦手だ。というか拒否感がすごい。必要とするなにがしかの物質的な支援ならいい。「こころ」ってなんだよと思う。そういう人の話を聞いていると、ご本人に悪気はないのだろうけど「わたしにはできる」という謎の上から目線を感じてしまうのだ。それはあなたが「誰かのこころの支えになってる」って感じたいだけではないのか。誰かのために「今行動している」と感じたいだけではないのかと思うのだ。本当にそうしている人って、そういうことを言わない気がする。

 篠田師も渡邉師もやっていることがすごくても、出てくるのは内省の言葉ばかりなのだ。失敗をした。後悔している。うまくいかない。これしかできない。言葉が出ない。自分の中の感情が出てしまった。その連続なのだ。

 死刑囚には嘘の自分を見抜かれる。そんな緊張感の中、自己開示をしながら他人と対する。すごい。でもこれ、死刑囚じゃなくても日々自分もそうしたらいいのではないかと思うのだ。だって今ここで話をできる人はお互いいずれ死んでいく身だけは決まっているのだから。そう思って日々、人と対するのもいいかもしれないと思う。やってみようかな。失敗しても誰にも気がつかれないさ。

 

 ブックレビューとは別で。

 昨日のYouTube中継で、「倶会一処」についての解説が瓜生崇師からあった。この内容と本の内容が合わさってすごく考えさせられた。経典から学ぶということと、生きるわたしたちの身の上というもの。是非ご覧ください。

『歎異抄』を読む 後序 その2 


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