2021年12月12日(日) 10:30~12:00 芦屋仏教会館
「本願に除かれた身」芦屋仏教会館日曜仏教講座
讃題
「ああ、弘誓の強縁.、多生に値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆平蔽せられば、かえってまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。」(教行信証 総序【真宗聖典 149頁】)
仏縁を大きな歓びをもって語る親鸞聖人。同時に
「誠に知りぬ。悲しきかな。愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。」(教行信証 信巻【真宗聖典 251頁】)
同じ人が、こういうことをいう。どっちが本当なのだろうか。
親鸞聖人はなにをもってすくいとおっしゃったのか。
神仏を深く信じている人ほど、死を前にして不安になる。『死について考える』遠藤周作。
死ぬときにどうなるかわからない。
戒定慧が守れないという法然上人。自分が疑いがないと思ったら落ち着いていく。心の中は石瓦のつぶてのごとく。冷たい心。喜びの心に座る。座っていく。霧が晴れた心に座る。お釈迦様のゴーディカは6回悟りを開いて6回崩れた(『雑阿含経』)。なにかを得て変わらない身になるのは大間違いであり、崩壊していく身である。誰に聞いても教えてくれない。
宗教は宗教心を殺す 安田理深
お念仏しかないと思っても、本当だと思えなかった法然上人。なぜ仏の名が救いなのか それは仏の願いだから。法然上人は泣いた。ここに求めているものがあった。どうしたらが奪い取られた瞬間。浄土宗が始まった瞬間。何でそれが仏願なのか知りたい。激しく同意。わたしは受け取れない。仏願だからといわれて「そうだ」と言えるか。
歎異抄第九条 喜びがないことを告白する唯円。親鸞聖人は、いまもそうだという。法然上人は、不実な心しかないという。内側はどろどろ、外は信心、信じてるような人間になる。疑いがなくなった気がする。霧が晴れて見えたのは、もっと深い疑いの心。自分が阿弥陀さんを信じているというほど深い疑いはない。自分が自分の心を見ていっている。
「おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号をもって己が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり。」
(教行信証・化身土巻 【真宗聖典 356頁】)
疑いのない心=如来の心(主語は如来)わたしが疑いないのではない。
唯除五逆・誹謗正法 法然上人は自分はここに入ってないと思っていたと思われるが、親鸞聖人はここが引っかかっていた。
どうしても本願に除かれる身だと知らされたときに、親鸞聖人は仏の声を聞いたのではないか。阿闍世の話(みんなが救われるなら地獄に行ってもいい)、悉知義の話(教行信証 信巻冒頭 【真宗聖典 209頁】)。
観経の最後、善知識から善友に。
最後に遠藤周作の『沈黙』の話が例えとして出た。自分は未読だったので、さらにどういうことかを感じたくて先に出ていた『死について考える』と『沈黙』を読んだ。
これは本を読んでから聞いた方が良かった。読後に録音を再度聞いた。重みと感じ方が全然違う。堅い信仰を持っていた人が裏切り者といわれたユダやキチジロー(登場人物)と同じだと気がついたとかそういうレベルの話ではやはりない。
今回の法話は何層にも折り重なった話だ。どこかだけを聞いてそうだと頷くのもいいかもしれないけど、ひとつひとつを丁寧に見て行くことも大事だと思った。
救われない身(誹謗正法)
・阿闍世(救われない身)が、地獄に落ちてもいいと言った
→釈尊は阿闍世が救われるまで涅槃に入らない→ずっと釈尊はいることになる
・絶対神に背かない堅信を誓っていたロドリゴが踏み絵を踏んだ(救われない身)
→お前に踏まれるために生まれ、十字架にかかったとイエスが沈黙を破る
→裏切り者と呼ばれた者たち、イエスを自分と同じように感じるロドリゴ
→神が共にいる・・・?
・阿弥陀の本願を信じ切れない自分(救われない身)がいる(でも無慚無愧)
→真如のはたらきはずっと続くはず(でもこう思ってしまうのが悉知義の話)
→どこまでも主語が自分。
ああ、ぐるぐるしてきた。
直感的には今まで「安心して絶望する」と思っていたけど、「絶望して安心する」という感じがした。
この日は、お聴聞先で出遇った方2年ぶりにご一緒した。2年前に一度会ったことがあるだけ。メールでたまにお互いのお聴聞の話をしていただけ。でもなんか遠くにいた気がしない不思議な人。今聞いた話について、その後言葉を交わす。特別な日だった。
◆前半の法然上人の部分はこれも読むと良かった。
『法然を読むー「選択本願念仏集講義」』 阿満利麿
◆『沈黙』遠藤周作
◆『死について考える』遠藤周作