如是我我聞

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長源寺 同朋学習会「無量寿経」(16)(瓜生崇師)

2021年12月14日(火) 19:30~21:00

長源寺 同朋学習会「無量寿経」(16)(瓜生崇師)

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(十二)「たとい我、仏を得んに、光明能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるにいたらば、正覚を取らじ。」

(十三)「たとい我、仏を得んに、寿命能く限量ありて、下、百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ。」

 

 しっかり聞いた、十二願と十三願。

①「浄土」と聞くと、それがあると思う。

②そして「浄土」はここじゃないどこかにある素敵な場所だと思う

③「浄土」にうまれるものとうまれないものがあると、それはすくわれる者とすくわれない者を作って行く

 十二願で光が満ちる。すべてを照らす。十三願でそれは限りがない永遠のはたらきである。「浄土」と思うと、あるなしで思ってしまう。本当はそういうものではない。そしてそれは場所じゃなくて、終りなく照らし尽くす光で境界のないものになる。ああ、この話、聞くのが好きなんだ。

 いま、自分は苦しいことを抱えている。こんなに境界のない世界の話をしているのに、どうしてあの人はすくわれているけど、この人はちがうとかいう話がでるのだろうか。そういうことを口に出すことが自分には理解出来ない。百歩譲って心の中では勝手に思うがいい。でも他の人に口にした瞬間に、その人は仏法において差別をする人なのだ。とてもかなしい。そんなものはぜんぜんわからない自分からしたら、狭い世界でそんなことをされているのをみるとどんどん遠くに行って客観的に見て滑稽に思える。しんどいな。わたしが思っているわたしはどこにもいない。自分と自分以外でしか見られない。無我。この悲しみもわたし以外の誰かの悲しみになるのだろうか。すべてをわかった誰からわたしの悲しみも自分の悲しみとして感じてくれるのだろうか。一切平等の世界。

 阿弥陀さんにすくってもらうということは、わたしの煩悩の延長ですくわれることではない。

(摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追わへとるなり、摂はをさめとる、取は迎へとる)「浄土和讃」弥陀経意 82 左訓 『親鸞和讃集(ワイド版岩波文庫 58頁)』

 

 先日の本光寺の法話から一気に法話を聞き始めた頃の感じになっている。今日はこの左訓を聞いて、ほんとうに背を向けて、阿弥陀さんだと思う方向に背を向けて走っている自分を想像した。後ろからわたしを追いかけて、ずっと、絶対、絶望的に追いかけてくる。自分は背を向けているから後ろからくるものがなんなのか全然わからないけど、逃げる。でも「迎へとる」を聞いた時に、自分はひょっとして後ろから捕まれるのではなくて、気がついたら背を向けていた阿弥陀さまの方向に全速力で走って行っているということなのかもしれない。それを「迎へと」られてしまうから逃げられない。阿弥陀さまのすくいは宇宙の果てまである。それは方向はないのかもしれない。自分が勝手にこっちが阿弥陀さまの方向だと決めているだけなのかもしれない。背中を向けて走ることすら意味がない。

 お聴聞をしている姿は、最も深い疑いで阿弥陀さまから背を向けている。

 

◆過去の長源寺法話メモ

luhana-enigma.hatenablog.com