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京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.5『信巻2』(瓜生崇師)

2021年12月21日(火)収録

京都・夕やけ仏教/親鸞の世界・教行信証を読む vol.5『信巻2』 祇園舎 瓜生崇師

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法然上人 菩提心はいらない→明恵激怒して『摧邪輪』

親鸞聖人 阿弥陀さんからもらう大菩提心しかない=南無阿弥陀仏=横超の金剛心

揺らがない心をもらうのであって、わたしが揺らがないものになるのではない。

南無阿弥陀仏をいただいた。自分で意味づけをする。それは自分が作ったものであり、100人がいたら100通りの南無阿弥陀仏がある。そのなかに本物の南無阿弥陀仏は一個もない。わたしの分別心で自分の手垢がついた南無阿弥陀仏。

わたしのこころ、感覚、思いを差しはさむ隙の無い瞬間=時剋の極促

純粋な瞬間、純粋経験、自分を貫いた瞬間。南無阿弥陀仏が自分を貫いた瞬間。

「聞其名号」十八願成就文のここを信心とした。南無阿弥陀仏が聞こえたことだ。事実を覆すことはできない。聞いてどう受け取ったかではない。聞いたということ。聞こえて出来上がった心ではない。

 

諸仏の称えられたた如来の御名が、衆生に伝えられる。南無阿弥陀仏を称えた人は、諸仏のはたらきをする。南無阿弥陀仏をもってあなたを救うという法藏菩薩の願いがわたしに届いた証が、南無阿弥陀仏を聞いたということ。

迷いの象徴である「名前」となって私の前に現れる。実体のない物質の集合体に名前を付ける。それに迷う。名前によって起こる。自分と思っているものは何もないのに。

仮名、言葉、戯論。あるんでもなければないのでもない。

諸仏は無量寿仏の名前を呼ぶ(まだ法藏菩薩なのに)。これが私を必ず目覚めさせるという法藏菩薩の願いが叶う。これが「信心歓喜」。「一念」わたしの思いが入らない南無阿弥陀仏が貫く瞬間。

 

仏願の生起本末は、南無阿弥陀仏。本願の「いわれ」ではない。名号を聞くということ(大峯師)。本願力回向=南無阿弥陀仏そのもの。法藏菩薩の物語ではない。

仏願の生起本末については、聞き始めの時に真宗大谷派の竹中智秀師の本を読んで知ったのだ。思い出す。

 

「真の仏弟子」

仮=一見インチキじゃないように見えて、そうじゃないこと。

南無阿弥陀仏は真なのに、自分の安心、満足、自己を知らされるとか思いをつけて仮にしていく。自己実現していく。

「柔軟になっていく」

金剛心の行人が柔軟心を得るとは??

名号を受けたのがわたしが金剛心、でも自分はどんだけでも変わる(柔軟心)。そうか。自分では硬いってわからないんだ。自分で思ってるものが崩れても大丈夫なんだ。

 

親鸞聖人が『法華経』を引用したのは孫引きで一か所だけ。「不退転」ということ。聞いたという事実は覆らないから、なくならない。

 

この間、お聴聞先でお聴聞友だちから病の告白を受けた。正直なんといったらいいのかわからなかった。友だちは、次いつ聞きに来られるかわからないとすごく焦っていた。「来られるときにきたらいいじゃないですか。もう南無阿弥陀仏は聞いたんだから。」っていったんだけど、あながち変なことではなかったかな。自分で言いながら、よくこんなこといったなあと思ったんだけど。

一度聞いたことはなくならない。これは自分の中のことじゃなくて、いろんな人の姿から見せてもらっている。自分ではわからない。

みんな名に、南無阿弥陀仏に貫かれているんだ。みんな誰かから南無阿弥陀仏を聞いた。自分に伝えてくれて人はわかっている。自分の隣のわかり合うことのない世界を持っている人も、誰かから聞いて南無阿弥陀仏に貫かれているんだ。そして今自分が称える南無阿弥陀仏も・・・。

 

◆竹中智秀師の本レビュー

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◆初めて聞いた無量寿経の法話。

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◆お話に出てきた『沈黙』のレビュー

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