2021年12月24日(金)15:00~16:40
にしのみや聞法会 「なぜ名がすくいなのか」(瓜生崇師)
どんなに読んでも初期の仏典から「南無阿弥陀仏(名)がすくい」ということが直接的にはもちろん、続いていくような手がかりがわからなかった。いま、こういうことではないだろうかということが形になってきた・・・今日は瓜生師が今お聖教読んで思うことのお話!
・お釈迦様の悟り 四門出遊 「わたしもああなりたい」
・わたしたちはからっぽの存在 生きていく空しさ なんでわたしはここにいるのかわからない。
自分は小さいとき、母親の三面鏡で自分の顔を見ていた。ひとつはどうしてこんな顔に生まれたんだろう、なんでじぶんはこういうふうに生きているんだろう。もう一つは、三面鏡を合わせると、自分の目では見られない角度の自分が見られるから。自分を見てみたかった。どう見えるのかというのが。ということを思い出しながら聞いた。
・いきがいがなければ生きていけない 最後はそれも消えていく。
・非想:思わざること(心を空っぽにする)
非非想:思わざることも思わないこと(心の中を空っぽにしようということも思わない)
お釈迦様はこれをマスターしたが、ちっともすくわれなかった。いつも空っぽにしていることはできない。自分の心は思い通りにならない。これは自分のものではない。
悪口をいわれて傷ついた人の話。「悪口は本人に返るから受け取らなければいい」といわれたが、そうできるかといわれてもできないということ。
・自分は外からの情報にすべて反応しているもの。外からの情報に受けた影響がずっと流れているようなもの
自分は今ネットからちょっと離れている。このブログを書くことがもうメイン。これほとんど一方通行だから苦しくない。
この話、よくわかる。自分はネットの情報をただ眺めているつもりだけど、その情報に実はすべて自分は分別の反応をしていたのだ。意識しなくても。なので「見ない」という選択をするだけで、目の前にいるリアルの人への意識を深く向けることが出来るようになったと実感している。
・涅槃=ニルバーナ 燃えさかっていた煩悩が消える わたしがわたしと思っていたものはなかった。 悟ったお釈迦様が誰もわかってくれないことに不安と苦しみを感じた(『聖求経』)。
⇒わたしが存在しない=この宇宙にわたしと無関係なものはない
三界唯心 この世界はわたしの心で出来ている。
世界の生きとしいけるものはひとり子のようなものである。
我は一切である=無我 【縁起】
そうだな。ビッグバンのときから元素は変わっていない。自分は実はこの宇宙起点の縁起である存在の説明がものすごくわかるし、聞いて震えるし、いろんなことがつながって聞える。自分が見ているに過ぎないけど、自分を客観的に見られる瞬間。
仏さまの苦しみは、衆生の苦しみをほっておけないから。だから涅槃に入ることが本当の悟りではない。大悲のところだけど、ここはいつも自分はわからなくなる。本当の大悲が想像出来ないからだ。自分のちいさな利己的な他者への思いぐらいしかわからないからだ。
⇦如去
涅槃 輪廻
如来➡
・お釈迦様は、涅槃に入らないで、この世界で仏法を伝えられた。人間として。われわれと同じように迷って苦しんで生きて死んだ。
仏教は完璧な完成がない。真如の世界は言葉に出来ない。この営みは終わらない。
・真如のはたらきは必ず輪廻のこの世界にはたらきかけてくる
「本当は涅槃も輪廻もない。真如も迷いもない。輪廻をつくっているのはわれわれ。輪廻があるから涅槃がある。そうなると、涅槃はかならず輪廻の世界にはたらき掛けてくる」(龍樹)
・名前というもので苦しむわたし。戯論。プラパンチャ(分裂するもの)。平等の世界を分け隔て行く。
ここ、自分の中でわかったようなと思った瞬間にぬるっと抜けていく感じ。ああ、積本『龍樹』を読もう。「中論」も入っていたはず。『ミリンダ王の問い』も読む。自分はここの解釈は自分が読んだ西田幾多郎に依るところが多い。
本当の自分を知っている人はいるだろうか。いない。自分もわからない。でも他人の一部分のちょっと奥っていうのはわかった気になるよな。そんなことを思う。
・『十住毘婆沙論』(龍樹) 頭燃を払うが如く求める
崩れるのが怖い、落ちるのが怖い → 仏の名を称えてすくわれる道(易行本)
迷いは名だというのに、名前ですくわれるという矛盾
「落ちる」=声聞および独覚 空を悟って動けなくなってしまう。悟ってしまったらすくわれなくなる。
涅槃の真如のわれわれを目覚ますはたらきは絶対迷いの姿を取る 「俗諦」
・穢土の仮名人 浄土の仮名人 (曇鸞)
名という世界で涅槃と輪廻の世界がつながる。
・言葉の城壁、バリアを突破するのは言葉しかない。
うあ、、、難しい。この場合浄土の仮名は南無阿弥陀仏か。仮名が南無阿弥陀仏で貫かれているから真如と接続される...。ここは何回か聞きたい。是非。
最後がやはりついて行っているつもりで、ああああああああとなった。再度録音を聞き直す。『教行信証』行巻を読まなければならない・・・。
これ二年前のレビュー見ていたら、そのときの自分が書いたタイトルが「南無阿弥陀仏という「言葉」で貫く」だった。あれからさらに深化したお話を聞いているんだな。でもやっぱり南無阿弥陀仏が聞えた事実なんだな。ずっと仏願の生起本末を聞かせてもらっている。
◆にしのみや聞法会の過去のレビュー