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『歎異抄』を読む(後序 その4)瓜生崇師

2021年12月29日(水)19:30~ 真宗大谷派大津別院

『歎異抄』を読む(後序 その4)瓜生崇師


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 今日の質問はすごかった。

「芦屋仏教会館でのお話の中で、宗教者ほど終末期に死の苦しみを受けるとお聞きしました。ご門徒さんに仏法聴聞をしていただくことは、人生最大の不幸を助長するのかと思いました。どう受けとめたらいいのでしょうか。」

 自分も聞いたが、たしかにその話を聞いた。でもそのように自分は受け取ることはなかった。ああ、そうかと思うことが今日あった。

 友だちが今日、自分が本を読んでいいというページを送ってくれた。読んだ自分はそこへの疑問をいった。それと同じことなのだ。友だちがその前の部分から読んで感じた事と、そこだけ切り取ったところを自分が読んだ時に、おなじ歩調というか調子できてないからそこだけ見てしまうみたいなことになったんだと思う。とりわけ自分にとって大事なところだったので。

 やっぱりことばって難しい。切り取ってしまう。でも全体を聞いたときに、読んだ時に、そうじゃないというのがわかる。やっぱり自分はことばに引っかかったらそこだけを考えてしまう。これは自分のことだなと思った。

 「わたしがどんな風に苦しんでどんな風に死んでいってもいいとなるのでなければ救いではない。実際のところは等しく不安を抱えて死んでいくのだろう。そういうのがわたしの救いとは関係がない。」

 

「自分の死が怖いことが問題にならない。死が自分の問題にならない。そもそも死ななきゃならない死語よりも、わたしが生きている意味がわからない方が問題な気がする。」

この質問は自分もまったく同じことを感じた。自分は死よりも、おそらく(ここでおそらくといってしまう自分もいけないが)なぜ生きていかなくてはいけないのだろうかということを硝子で蓋をしているような感じだ。ただ、お聴聞をする内に、これは聞いている自分の問題であって、別に死の恐怖じゃなくてもいいのではないかとは思っていた。あらためて瓜生師に話してもらって、ちょっと安心というか、ああ、やっぱりそうかと感じがした。どうしても自分は死よりも生きている今のことが元になって聞いていると思う。どこかで自分は聞き始めるのに理由が変なのかなとも思っていた部分はある。

 

 さて、後序本文

「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏まぞまことにておわします」

「・・・煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のだけが真実なのである」

 親鸞聖人は、これだけがまことだとおっしゃった。からっぽのわたしに届く。今日は、ここを瓜生師の語りで味わう日だった。共に読み、出てくることばの外まで感じる。

 

◆『歎異抄』を読む シリーズ(瓜生崇師)

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