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本光寺 歎異抄を読む(16)(瓜生崇師)  

2021年1月10日(月)19:30~21:00

『歎異抄を読む』 第二条 本光寺 

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前回は「よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」まで。

 

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前回復習

「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」

(『歎異抄』【真宗聖典】627頁)

・震災の時「お念仏だけではあかんのや。実際に救わなければいけない。」とボランティアに行く話をたくさん聞いた。

・阿弥陀さんといつも一緒にいて欲しいのか

→都合のいいときだけ一緒にいて欲しい(悪い殺しているときは都合が悪い)

・南無阿弥陀仏を信じて称えなければならないと思ってしまうこころ

南無阿弥陀仏だけでいいのかというこころ。自分はやっぱり南無阿弥陀仏を称えたからいい人になる気も心が軽くなることもない。かといって、南無阿弥陀仏を称えなければならないという強迫観念もない。称えるときに称えるだけだけど、でも「すくいだ」といわれると、どういうことが自分のすくいなんだろうと南無阿弥陀仏と自分の化学反応のようなことがあるか考えてしまう。それだけじゃたりんだろとも思う。そういう心なんだろうな。

 

「よきひと」 善友・師友・法兄

ネットにYouTubeに法話を上げるとよく言われる話。「瓜生さんはご信心をいただいていないから、正しい知識を持った正しい先生(善知識)のお話を聞いておすくいをいただいてください」

すくわれた人がすくわれてない人がすくうという構造ではないというのが「よきひと」の意味。

18のときから30年お話を聞いてきたけど、いろんな人がいたけど、一生涯仏教を聞く人は少ない。一定期間熱心に聞かれるけど、お話を聞きに来なくなる人は多かった。それらのひとたちがいつまで聞き続けるかわからない。自分もどうなるかわからない。南無阿弥陀仏がでてこないときがある。3、4年先まで法話の予定があるから阿弥陀さんの話をしろと引きずり出される環境にある。

前回は本当にこのお話だった。今自分が聞いているお話は善友の話。だから自分は聞けるのだと思う。なんでもわかったひとにおしえてもらっているのではない。

 

「総じて持って存知せざるなり」

親鸞聖人の回答、なんで「そんなもん全然しらんし!」とおっしゃったか!お念仏やっていわない。

曇鸞大師

「しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。」(『往生論註 巻下 解義分 起観生真』【註釈版・七祖篇】103頁

南無阿弥陀仏を称えても、わたしの闇がまったく晴れない。これを何度も引用される。念仏が正定業だとなんどもおっしゃるが、南無阿弥陀仏を称えても無明が晴れないという。晴れたという人もいるけどね。自分は「晴れました」という人にたくさん会ってきたが、しばらくしたらもどっていく。たすかった!破れた!といっても、われわれのこころは無常だから戻って行ってしまう。阿弥陀さんの願いが充たされないって書いている。正直によく書くなあ。曇鸞大師も親鸞聖人も正直な人だ。勇気がいったと思う。南無阿弥陀仏がすくいだと言いつづけた人がこれ書いてる。

 

南無阿弥陀仏を称えてこれがすくいかと抱きしめる。

自分もそういうことがある。気のせいなのだ。ずっと同じ心でいられない。なんかを勘違いして聞いてここに聞きに来ているのかもしれない。でも聞きにくるからしょうがないなと思う。

どうしても、「無明の晴れた、信心いただいた方」のお話がわからない。たまにそういう方と話すのだけど、話している側から陳腐化しているような気がしてならない。もしそれが成立しているとしたら、自分の中だけじゃないだろうか。他人は検分できない。そもそもそういうことがあってもいいとおもうけど、とりわけ自分はそうなりたいという気持ちにならないのだ。

 

・実相身:阿弥陀さんの本当の姿。無分別であり、空。

・為物身:「物」わたし、生きとし生けるもの。分別でわかるもの。

     浄土といういい世界があります。いまのままでは地獄いくよ。

     と分別でわかるようにわたしたちの「為」に見せる。だから念仏しよう。

     善し悪しの世界で浄土を話す。真実の姿がわからないから。

「証知生死即涅槃」

なにが良くて悪いかなんて、わたしにはわからない。勝手に分け隔てて苦しんでいる。

第一条で「しかれば・・・あくをもおそるべからず・・・」いいことがほしくて悪いことはいらんとわたしたちはいうが、念仏はそれをこえる。

 

「おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号おをもって己が善根とするがゆえに、信を生ずるにあたわず、仏智を了らず。」(『教行信証』化身土・本【真宗聖典】356頁)

でも為物身を勘違いして、自分にとって楽ですばらしい世界が欲しいから南無阿弥陀仏を称える。これが取引。

お浄土に往くなら念仏称えるし、地獄に行くって言ったら念仏しないんだろ。そういうこっちゃねえんだよ。わたしは法然上人にいわれたからお念仏してるんだよ。そういうのじゃないんだよ。

ただ念仏って、難しいね。ぼくらは「ただ念仏」にならない。

法然上人に騙されても後悔することがない。親鸞聖人は浄土真宗の信仰は「地獄に落ちない、幸せになる」というものじゃない。

修行して仏の悟りを開ける身なのに念仏して地獄に落ちたら後悔もするだろうが、なにやってもどうやっても自分は地獄しか生き場所がないのに、後悔するわけない。

この頃輪廻転生の本も読んでいたので思ったのだけど、地獄に落ちたくないみたいな輪廻観はない。浄土に往きたいとも思わないけど。死後の世界で生きている人間にわかることはない。でも死ぬことだけはわかっている。自分が死ぬときどんな状態になろうと、摂取不捨とされるって思うと、ある意味絶対くる死って摂取不捨だよな。怖くて絶望するけどそうなるのだとわかっていることはすくいかもしれない。南無阿弥陀仏は、自分が死ぬ存在であるということも知っているんだ。死に苦しむことも。

 

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親鸞聖人の信仰の形ってすごいな。でもこの大乗仏教って明確にいわないまでもこういう形の信仰がどこかにあって、多くの人たちが繋いできたんじゃないのかなと思う。そう思うと親鸞聖人の言語化能力というのはすごい。

 

◆本光寺のレビュー

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