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なぜ「名」がすくいなのか(1)浄土真宗Live! 瓜生崇師

2022年1月12日(火)20:00~中継

なぜ「名」がすくいなのか(1)浄土真宗Live! 瓜生崇師


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 めちゃくちゃサムネがかっこいい!!!

 

 なぜ言葉がすくいなのか。元々のお釈迦様の悟りの世界が南無阿弥陀仏という名になったのか。
 「しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまう。称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなわちこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はこれ正念なりと、知るべしと。」(『教行信証』行巻 【真宗聖典】161頁)
 わたしの根源を破るのは南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏そのものがすくいである。
 ズバリ書かれていても、善い人になって生きていかなければいけないと思ってしまう。安心する教えを聞きたい、生きる指針にしたい。という人が多い。
 南無阿弥陀仏を称えて・・・・どうかにわたしのすくいの証を求めていく。

・名前 実体を認識するための道具。
→南無阿弥陀仏は実体につけられた名前ではない。名がすくい。わたしのすくいの証は南無阿弥陀仏。
 釈迦の教えを求めていった人たちがどうしてここにたどりついたのか。

 

・大峯先生の本 「生死出づべき道の探求」

luhana-enigma.hatenablog.com

 スマホが普及してから、なんでも検索して、あらゆる人の思惟が流れ込むように入ってくる。でも、「なんで俺はここにいるんだ」ということはわからない。根源の不安。足下になにもない。存在意義を求めていくが,全部失われていくもの。

 やっぱり大峯先生の言葉は宇宙に広がっていくような言葉がすごいなあ。

・釈迦の覚り 二人の先生に会った。
①    広い宇宙と自分が一体化する境地 釈尊は本当のすくいだと思わなかった。
②    心の中を空っぽにする 非想非非想、有頂天 

  釈尊は自分の心を空っぽにする「境地」はすくいではないと気がついた。わたしが至ったところ。境地は崩れる。諸行無常だから。今まさに変わっていくから。変わらないものは何一つない。われわれの心も変わっていく。私の心はわたしの持ち物ではない(五蘊)。悲しみ、怒りはどこからかでてくる。コントロール出来ない。忘れようと思っても忘れられない。
わたしの心=機 人間の心は外からの影響で右往左往している。

本当に自分が考えたことってどれだけあるか?そうだなあ。ないかもしれない。全部入ってきた情報の統合だ。

・無我=境地ではなくて事実。
※ここは瓜生師独自の解釈なので書かない。今回でもすごいところの一つ。釈尊が気づいたことがすごい(35:30位)

・物事をありのままに見ていくことで覚っていった=智慧による
 この世のありのままの姿を見た=縁起 私が思っているような私はどこにも存在しない。
 ただの関係性だ。実体がない。こういわれると身も蓋もないのだけど、聞いているうちに自分の存在がぐらぐらする不思議な感覚に。

・一番疑いがないのは自分という存在なのになぜ???→言葉に出来ない。

・本当のわたしを誰も理解してくれない。それぞれの人によって見方が違う。
 父、母、子、恋人、友だちなど
これは常々思うこと。なので自分は人間関係に期待をしていない。関係性は変わっていく。親子であっても、夫婦であっても。
・じゃあ、本当のわたしはどこ?
どこにもいないとお釈迦様は言う。自分でも思って見なかった自分があることないか?本の著者だって書いた本のすべてがわかっていない。本当の本はどこにある?読んだ人の中にしか存在しない。わたしは普遍の存在としてあるのではなく、関係性の中にある。

話を聞いて「ああ!そうだ!」と思った瞬間に自我の中に取り込んで無我でなくなっている。
どうしてわたしという普遍の存在があると錯覚するのか
→言葉である、わたしは名前である 
※『神々との対話』サンユッタ・ニカーヤ、『ミリンダ王の問い』をチェック
関係性の明滅。実在はない。だから関係性が多かったからといって実体があるわけじゃないもんな。ことばが世界を作ったというのは最近の言語学系哲学の本を読んで同じことだなと思う。

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・戯論=プラパンチャ=分け隔る
 空に「空」と名前をつけた瞬間に分別の世界になってしまう。どうにもならん。

・梵天勧請 何回聞いてもいい。梵天は、わたし。

・わたし一人の覚りは存在しない わたしが関係性の中に存在するから。(山口益 我は一切なり)

・如来と如去がひとつ(覚りと迷い、涅槃と輪廻)
 お釈迦様は迷いの世界に留まり、わたしたちと同じ世界で苦しんだ。
・双樹林下往生は不本意な往生の仕方(化身土巻)言葉を持って言葉を超えたものを説くというのは矛盾をはらんでいるので終わらない。仏教は無限に人々が関わっている。言葉が継ぎ足され継ぎ足されしてわれわれもその中に加わって説き示していく。これからも続いていく。これが一つの宗教の形。名によって作られた虚構の世界を名によって覚っていく。

・お釈迦様の覚りが、覚りの世界からみたら智慧になり、われわれからみたら慈悲になる。大乗仏教の視点がここ。言葉を超えた世界は必ず真如ならざるもの、ことばを持ってわれわれを目覚ますはずである。

・わからないわれわれがいるからかならず真如は訴えかけてくる。
 ひとつのものであって、ふたつのもの。ふたつのものであって、ひとつのもの。
→ここは西田幾多郎の哲学を読んでいるとハッとするところがある。

・龍樹:言語活動に依らずして、究極的なものは説示されない。

 

 いやあ、いろいろ心の中が忙しかったけれど、両極端をいったりきたりするうちにみえてくるというか感じることが生まれてくるお話だった。空や七高僧のお話は他で聞いたことがないのでじっくり何回も聞きたい。

 お話の中でも明確に自分が読まれたところを解説してくれるので、ああ、自分もお聖教を読んでみようと思うのだ。

 次回も楽しみ。